フランシス・ボイル (初代シャノン子爵)
初代シャノン子爵フランシス・ボイル(英語: Francis Boyle, 1st Viscount Shannon PC (Ire)、1623年6月25日 - 1699年4月)は、アイルランド王国の貴族。
生涯
[編集]初代コーク伯爵リチャード・ボイルと2番目の妻キャサリン(旧姓フェントン、サー・ジェフリー・フェントンの娘)の六男として、1623年6月25日に生まれた[1]。1635年10月から1639年まで弟のロバート・ボイルと共にイングランドのイートン・カレッジで教育を受け、1639年にもロバートと一緒にグランドツアーに出かけ、スイス・ジュネーヴへ留学したが、1641年にアイルランド反乱が勃発したためアイルランドへ帰国(ロバートはスイスに留まる)[1][2]。アイルランド反乱では兄弟たちとともに従軍して鎮圧に関わり、1642年9月3日のリスキャロルの戦いで活躍した[1]。この戦闘では兄ルイスが参戦して戦死した[1]。1660年にはオランダで復位を準備しているチャールズ2世のもとに派遣された[1]。
イングランド王政復古の後の1660年9月6日、イングランド王に復位したチャールズ2世によりアイルランド貴族であるリメリック県におけるシャノン子爵に叙され、アイルランド枢密院の枢密顧問官に任命された[1]。またアイルランド総督の初代オーモンド公爵ジェームズ・バトラーに兄の初代オーラリー伯爵ロジャー・ボイルと共に仕える中でウィリアム・ペンとも知り合い、ペンがクエーカーになっても変わらず交流を続けた[3]。
1662年7月28日から1685年まで騎兵中隊の隊長を務め、1672年8月20日にコーク県総督およびコーク市長に就任した[1]。1689年5月にジェームズ2世が招集したアイルランド議会には欠席した[1]。
1699年4月に死去、4月19日にヨールのセント・メアリー修道院に埋葬された[1]。孫リチャードが爵位を継承した[1]。
家族
[編集]1638年10月24日、エリザベス・キリグリュー(1622年5月16日洗礼 - 1681年1月4日埋葬、ロバート・キリグリューの娘)と結婚した[1]。
- リチャード(1679年9月と1699年4月の間に没) - 1668年9月7日、エリザベス・ポンソンビー(Elizabeth Ponsonby、サー・ジョン・ポンソンビーの娘)と結婚した。息子に第2代シャノン子爵となるリチャードがいる。
エリザベス・キリグリューはチャールズ2世の愛人の1人になり、チャールズ2世との間で娘シャーロット・ジェマイマ・ヘンリエッタ・マリア・フィッツロイをもうけた[1]。
系譜図
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l Cokayne, George Edward; White, Geoffrey H., eds. (1949). The Complete Peerage, or a history of the House of Lords and all its members from the earliest times (Rickerton to Sisonby). Vol. 11 (2nd ed.). London: The St Catherine Press. pp. 655–656.
- ^ 金森 2010, pp. 257–258.
- ^ ヴァイニング 1950, pp. 67, 116.
参考文献
[編集]アイルランドの爵位 | ||
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新設 | シャノン子爵 1660年 - 1699年 |
次代 リチャード・ボイル |