ハインリヒ45世・ロイス・ツー・シュライツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。貿易風 (会話 | 投稿記録) による 2012年4月5日 (木) 02:00個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

弟系ロイス侯世子ハインリヒ45世

ハインリヒ45世・プリンツ・ロイス・ユンゲレリーニエHeinrich XLV. Prinz Reuß jüngerer Linie, 1895年5月13日 - 1945年(ただし推定))は、ロイス家家長、名目上のロイス侯(在位1928年 - 1962年)。弟系ロイス侯国を治めたロイス=シュライツ家最後の当主で、同国最後の侯世子(Erbprinz)であった。

生涯

弟系ロイス侯ハインリヒ27世とその妻でホーエンローエ=ランゲンブルク侯ヘルマンの娘であるエリーゼの間の三男として、エーベルスドルフ(現在のザールブルク=エーベルスドルフ)で生まれた。ドレスデンの中等教育学校を卒業後、第1世界大戦に中尉として従軍した。終戦とドイツ革命の後、ライプツィヒマールブルクミュンヘンキールなどの諸都市の大学で文学、音楽、哲学を学んだ。

少年時代のハインリヒ45世、1905年頃

ハインリヒ45世は熱烈な演劇のファンで後援者であり、また監督、劇作家、顧問でもあった。1923年、彼はゲーラのロイス劇場の演劇部門の責任者となった。

1928年に父が亡くなると、ハインリヒ45世はロイス侯家の家長となり、名目上のロイス侯を称した。その前年の1927年、同族の兄系ロイス侯国の旧統治者だったロイス=グライツ家が断絶したため、ロイス=シュライツ家の当主はロイス侯の称号を名乗るようになっていたのである。

ハインリヒ45世は生涯独身を通した。1935年、彼は分家筋のロイス=ケストリッツ侯子ハインリヒ1世(1910年 - 1982年)を養子に迎え、4年後にはハインリヒ1世を自分の姪のメクレンブルク公女ヴォイツラヴァ・フェオドラ(メクレンブルク公アドルフ・フリードリヒの娘)と結婚させた。しかし、ハインリヒ1世はあくまでハインリヒ45世の財産の相続人に過ぎず、ロイス侯家家長位を引き継ぐのはロイス=ケストリッツ侯家家長のハインリヒ4世(1919年 - )と決まっていた。

1930年代、ハインリヒ45世はナチ党に共感し、同党に入党した。1945年8月、ハインリヒ45世はエーベルスドルフでソ連軍に逮捕され、その後は行方が分からなくなった。おそらくソ連接収後のブーヘンヴァルト強制収容所に収監されたのち殺されたと考えられるが、収容所の死者の記録には名前が載っていない。エーベルスドルフ城、タールヴィッツ城、オステルシュタイン城などのハインリヒ45世の資産はすべて、1948年にソ連進駐軍によって没収・接収されている。

1962年1月5日、西ドイツビューディンゲン地方裁判所は、ハインリヒ45世の死亡を宣告した。これに伴い、後継者に指名されていたロイス=ケストリッツ侯ハインリヒ4世がロイス家の家長となった。

著作

  • Das sterbende Haus; Schauspiel in 1 Akt
  • Bräutliche Birken; Lustspiel in 1 Akt
  • Das grosse Jagen; Dramatisches Gedicht
  • Die Wunderblume; Ein Märchen in 7 Bildern, Musik von Georg Winkler, 1936

参考文献

  • Thomas Gehrlein: Das Haus Reuss älterer und jüngerer Linie. Börde-Verlag, Werl 2006. ISBN 3-98103-153-9

外部リンク