ハインリヒ1世・ロイス

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ハインリヒ1世・ロイス
Heinrich I. Reuß

出生 (1910-10-08) 1910年10月8日
クリーテルンポーランド語版
死去 (1982-03-10) 1982年3月10日(71歳没)
西ドイツの旗 西ドイツビューディンゲン
埋葬 西ドイツの旗 西ドイツリッヒアルンスベルク修道院ドイツ語版
配偶者 ヴォイツラヴァ=フェオドラ・ツー・メクレンブルク
子女 一覧参照
家名 ロイス=ケストリッツ家(中子系)
父親 ハインリヒ34世・ロイス・ツー・ケストリッツ
母親 ゾフィー・レナーテ・ロイス・ツー・ケストリッツ
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ハインリヒ1世・プリンツ・ロイスHeinrich I. Prinz Reuß, 1910年10月8日 - 1982年3月10日)は、ドイツの旧諸侯ロイス家傍系の公子。

生涯[編集]

シュトンスドルフ英語版の領主だったロイス=ケストリッツ侯子ハインリヒ34世(1887年 - 1956年)と、その妻のロイス=ケストリッツ侯女ゾフィー・レナーテ(1884年 - 1968年)の間の第1子、長男。両親は同族で、ハインリヒ63世侯子を共通の先祖とする。父は63世の五男ハインリヒ12世の子ハインリヒ28世の子であり、母は63世の三男ハインリヒ7世の娘である。

ボン大学で学び、1930年同大学のボルシア・ボン友愛会英語版に加入した[1]。1935年1月19日、弟系ロイス侯家最後の当主ハインリヒ45世侯世子の養子となり、45世の個人財産の相続者と定められた。1939年9月15日にバート・ドーベラン英語版で、45世の姪のメクレンブルク公女ヴォイツラヴァ=フェオドラと結婚した。ただし、45世のロイス家全体の家長としての地位は、又従弟のハインリヒ4世が引き継ぐことが決まっていた。ドイツ国防軍に陸軍大尉として所属した。第二次世界大戦後、赤軍に占領されたドイツ東部から退去し、妹夫婦を頼ってビューディンゲン城ドイツ語版に身を寄せた。

農業経営者、ロイス家の(家長ではないものの)代表者として活動した。プロテスタント系のヨハネ騎士団騎士にも叙任された。1982年死去、リッヒアルンスベルク修道院ドイツ語版内の墓地に埋葬された[2]

ドイツ再統一後、未亡人ヴォイツラヴァはソ連施政下に没収されたロイス家の所領・資産を取り戻そうと請求運動を行った。テューリンゲン州政府はハインリヒ1世の遺族に約700点の美術品を返還した[3]。2008年、家族にはタールヴィッツ英語版城の所有権を認められた[4]。しかし、弟系ロイス侯家の本拠だったオステルシュタイン城ドイツ語版の所有権については認められなかった[5]

子女[編集]

妻との間に6人の子をもうけた。

  • フェオドラ・エリーザベト・ゾフィー(1942年 - ) - 1967年ギスベルト・ツー・シュトルベルク=ヴェルニゲローデ伯爵と結婚
  • ハインリヒ8世(1944年 - ) - 1973年男爵令嬢ドリット・フォン・ルフィンと結婚
  • ハインリヒ9世(1947年 - ) - 1984年男爵令嬢アメリー・ベセラー・フォン・タールフィンゲンと結婚
  • ハインリヒ10世(1948年 - ) - 1976年男爵令嬢エリーザベト・アケルイェルム・ア・マルガレーテンルンドと結婚(1990年離婚)、1991年伯爵令嬢アントイネッテ・フォン・アルニムと再婚(のち離婚)
  • ハインリヒ13世英語版(1951年 - ) - 1989年スーザン・ドゥフト・ジャラディ(Susan Doukht Jaladi)と結婚ののち離婚、2022年ドイツクーデター未遂事件に関与
  • ハインリヒ15世(1956年 - ) - 1999年アーニャ・ノース=クーパー(Anya Charlotte Nooth-Cooper)と結婚

脚注・引用[編集]

  1. ^ Kösener Corpslisten 1996, 16, 1055
  2. ^ Friedhof Kloster Arnsburg auf Royalty Guide.
  3. ^ Fürstenhaus Reuß: Streit um Status der „Geraer Silbermöbel“. In: Tagesspiegel, 27. September 2006.
  4. ^ Fürstenhaus Reuß erhält das Schloss Thallwitz zurück. In: Die Welt, 25. Juli 2008.
  5. ^ Kein Erfolg vor Gericht, 26. Januar 2005 auf www.gera-chronik.de