トニー・スタイン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Chihaya72 (会話 | 投稿記録) による 2020年7月10日 (金) 18:01個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎経歴)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

トニー・スタイン
Tony Stein
生誕 (1921-09-30) 1921年9月30日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 オハイオ州デイトン
死没 1945年3月1日(1945-03-01)(23歳)
大日本帝国の旗 大日本帝国 東京都 硫黄島
所属組織 アメリカ海兵隊
軍歴 1942年 - 1945年
最終階級 伍長(Corporal)
墓所 カルバリー墓地(Calvary Cemetery)
テンプレートを表示

トニー・スタイン(Tony Stein, 1921年9月30日 - 1945年3月1日)は、アメリカ合衆国の軍人。第二次世界大戦中、アメリカ海兵隊の一員として参加した硫黄島の戦いにて名誉勲章を受章した。最終階級は伍長。

経歴

1921年、オハイオ州デイトンに生まれる。同地のカイザー・ハイスクール(Kiser High School)を卒業した後、1942年9月22日に海兵隊への入隊を果たした[1]

新兵訓練の後、スタインは海兵隊の精鋭であるパラマリーンズ英語版(落下傘部隊)に配属された。その後、第3海兵師団第1落下傘連隊第3落下傘大隊本部中隊の一員として、ベララベラ島の戦い英語版ブーゲンビル島の戦いにも参加している。1944年にパラマリーンが解散すると、カリフォルニア州のキャンプ・ペンドルトン海兵隊基地に送り返された。ここで伍長に昇進した後、新設の第5海兵師団にて第28海兵連隊英語版第1大隊A中隊に分隊長として配属された[2]

1942年のガダルカナル島の戦い以降、前線で戦う海兵隊員の中には、標準的なM1919A4機関銃よりも軽量で射撃速度に優れるとして、墜落した海軍機の残骸から取り外した.30 AN/M2航空機関銃を軽機関銃として転用しようと試みる者が何人かいた。「スティンガー」(Stinger)として知られるモデルは、パラマリーンズのメル・J・グレビッチ軍曹(Mel J. Grevich)がブーゲンビル島の戦いの折に考案した。これはAN/M2にM1ガーランド(銃床)とM1918A2(二脚、リアサイト)の部品を取り付け、引き金にも改造を施したものである。硫黄島への上陸の直前には6丁が製作され、1丁はグレビッチ自身が使用し、残りは彼が信頼する5人の機関銃手に託された。トニー・スタインはそのうちの1人だった[3]

1945年2月19日、スタインは硫黄島への上陸に参加する。部隊が内陸部へ進出した後、スタインは「スティンガー」を用いて日本軍のトーチカ群を攻撃、破壊した。この時、彼は弾薬を補給する為に合計8度も海岸の陣地と前線とを行き来し、その度に負傷した海兵隊員たちを連れ帰ってきたという。この功績から、彼は後日名誉勲章を授与された[4]

その後、第28海兵連隊は摺鉢山への攻撃に参加し、2月23日には頂上に星条旗が掲げられた(硫黄島の星条旗)。スタインは摺鉢山を巡る戦闘の中で負傷し、病院船へと送られた。彼が治療を受けている頃、前進した第28海兵連隊は島の西部にあった362A高地(Hill 362A)として知られる要塞化された陣地への攻撃を図り、多数の死傷者を出していた。これを聞いたスタインは病院船を抜け出し、連隊へと復帰した。3月1日、スタインは19人の兵士を率い、A中隊を釘付けにしていた機関銃陣地付近の偵察に向かったが、この際に日本兵からの狙撃を受け戦死した[2]

1946年2月19日、オハイオ州知事庁舎で催された式典の中で、スタインの未亡人はフランク・ラウシェ英語版知事からスタインが受章した名誉勲章を手渡された[1]

当初、スタインの遺体は硫黄島の第5師団墓地に埋葬されていたが、終戦の後に改葬を行うべく故郷デイトンへと送り返された。1948年12月17日、聖母ロザリー教会(Our Lady of the Rosary Church)による葬儀が行われ、スタインは最高級の軍隊葬をもってカルバリー墓地(Calvary Cemetery)に埋葬された[1]

1972年に就役したノックス級フリゲートスタイン英語版」は、彼の名にちなんで命名された[2]

名誉勲章勲記

スタインに授与された名誉勲章の勲記には、次のように記されている。

1945年2月19日、火山列島硫黄島における日本軍との戦いの中で、彼が第5海兵師団第28海兵連隊第1大隊A中隊の一員として果たした、課せられた義務を凌駕する類稀なる武勇と自らの命をも顧みない勇敢に捧ぐ。最初の上陸に参加して海岸にて配置についたスタイン伍長は、自ら改造した航空機銃を用い、引き続き上陸を図る小隊の後続部隊への援護を行った。戦友達が機関銃や迫撃砲の集中砲火を浴びて足止めされた時、彼は大胆にも立ち上がって敵前に身を晒し、銃撃を自分へと向けさせ、その中で彼は猛烈な銃撃を続ける敵銃座の位置を確認した。この戦略的に配置された火点の無力化が決定されると、彼は大胆にもこれらのトーチカに次々と飛び込み、最終的には単身で20人以上の敵兵を殺害した。辺り一面に砲弾や銃弾が冷酷な雹の如く降り注ぐ中でも彼は冷静かつ勇敢で、巧みに改造機銃を使いこなして銃撃を続けていたが、間もなく銃弾が尽きてしまった。彼は臆することなく、動きやすいようにとヘルメットと靴を脱ぎ捨て、銃弾を補給する為に8度も海岸の陣地へと走り、また海岸に戻る度に負傷した兵士を連れ戻ったり、あるいは援護するなどした。戦闘は容赦なく野蛮と混乱を極めていったが、彼は小隊が配置につく時は必ず迅速な援護を行い、また頑なに抵抗を続けていたトーチカに対するハーフトラックによる攻撃を指揮し、日本軍陣地の最終的な破壊をもたらした。後日、彼は2度戦闘に参加し、小隊の中隊陣地への撤退を援護した。豪胆かつ不屈の男、スタイン伍長が積極的に示した正しい判断、多勢の敵を前にしながらも揺らがぬ責務への献身、任務に対する重大な貢献、そして苦しい戦いの中で示した勇気は、アメリカ海軍が誇る最高の伝統を一層と高めたのである。[4]

脚注

  1. ^ a b c CORPORAL TONY STEIN, USMCR (DECEASED)”. Who's Who in Marine Corps History. United States Marine Corps History Division. 2011年9月6日閲覧。
  2. ^ a b c Hargis, Robert; Starr Sinton (2003). World War II Medal of Honor recipients (1): Navy & USMC. Oxford: Osprey Publishing. pp. 49–52. ISBN 978-1-84176-613-3. http://books.google.com/books?id=JdGr1QFy9HwC&pg=PA50 
  3. ^ Firepower in the Pacific: The “Stinger” Machine Gun”. American Rifleman. 2020年1月5日閲覧。
  4. ^ a b Medal of Honor Recipients - World War II (M–S)”. Medal of Honor Citations. United States Army Center of Military History (2011年6月26日). 2011年9月6日閲覧。

参考文献

  • Alexander, Col. Joseph H., USMC (Ret). Closing In: Marines in the Seizure of Iwo Jima, Marines in World War II Commemorative Series, History and Museums Division, United States Marine Corps, 1994.
  • Bartley, Lt.Col. Whitman S. Iwo Jima: Amphibious Epic, Marines in World War II Historical Monograph, Historical Section, Division of Public Information, United States Marine Corps, 1954.

外部リンク