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チャールズ・ポーレット (第3代ボルトン公爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
乞食オペラ』、ウィリアム・ホガース作、1731年。第3代ボルトン公爵は一番右、観客席で座っている男性。

第3代ボルトン公爵チャールズ・ポーレット陸軍中将(英語: Charles Powlett, 3rd Duke of Bolton KG PC1685年9月3日1754年8月26日)は、イギリスの政治家。1685年から1699年までウィルトシャー伯爵、1699年から1722年までウィンチェスター侯爵儀礼称号を使用した。1705年から1708年までイングランド庶民院英語版議員を、1708年から1717年までイギリス庶民院議員を務めた後、ベイジングのポーレット男爵に叙され貴族院に移籍した。

生涯

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ジェームズ・シーモアによる肖像画、1740年頃。

初期の経歴

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第2代ボルトン公爵チャールズ・ポーレットと2人目の妻フランシス・ラムスデン(Frances Ramsden)の長男として、1685年にチョートン英語版で生まれた[1]。エンフィールド・スクール(Enfield School)で教育を受けたものの、1699年に不登校と不品行により退学を余儀なくされた。1700年から1704年までアンソニー・アシュリー(Anthony Ashley)とともに外国を旅し、1705年にはスペイン継承戦争ポルトガル戦役に参加した[2]

政歴

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1705年に急遽帰国して、12月7日のリミントン選挙区英語版補欠選挙に間に合い、庶民院議員に当選した。1708年イギリス総選挙では接戦ながらもハンプシャー選挙区英語版で当選したが、ヘンリー・サシェヴェレル英語版の裁判によりイングランド国教会トーリー党を支持したため1710年イギリス総選挙1713年イギリス総選挙では落選した。1714年、プリンス・オブ・ウェールズジョージ・オーガスタス寝室侍従英語版に任命され、1717年まで務めた[2]

1715年イギリス総選挙ではカーマーゼンシャー選挙区英語版に鞍替えして当選した[2]。さらに1715年から1733年までミルフォード・ヘイヴン英語版総督、南ウェールズ副提督英語版グラモーガン統監英語版を務めた[2]。1717年4月12日に繰上勅書によりベイジングのポーレット男爵(Baron Pawlett of Basing)を継承して貴族院に籍を移した。[註釈 1]同年にロイヤル・ハウス・ガーズ英語版隊長に任命された(1733年まで在任)[2]

1722年1月22日、父の財産とボルトン公爵の爵位を継承[2]、ハンプシャーにおける大地主の1人になり、同郡の庶民院議席を数議席支配するようになった。その結果、ボルトン公爵は総選挙において与党を支える人物の一角になり、1722年から1733年までハンプシャー統監ドーセット統監英語版ニュー・フォレスト長官、ウィンチェスター執事長(High Steward of Winchester)を務めた。1725年6月1日には枢密顧問官に任命され、1725年から1726年にはLord Justiceを務めた。1726年から1733年まで、海軍工所のための国土調査長官とワイト島総督英語版を務めた[3]

1733年、議会で野党側に立って政府に反対する投票をしたため全ての役職から罷免されたが、1740年から1742年まで恩給紳士隊長を務めた[3]。その後は首相ロバート・ウォルポールと和解して1742年にハンプシャー統監ワイト島総督英語版、ニュー・フォレスト長官に復帰した。1746年にはワイト島総督英語版を再び罷免された[3]

1754年8月にタンブリッジ・ウェールズ英語版で死去、ベイジング英語版で埋葬された。

家族

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1713年、第3代カーベリー伯爵ジョン・ヴォーン英語版の娘アン・ヴォーン英語版(1751年9月20日没)と結婚したが、2人の間に子供はいなかった[4]。1751年10月20日、ラヴィニア・ベスウィック英語版(1760年1月17日没)と再婚した[4]。2人は3男をもうけたが、結婚以前にもうけた子供だったため庶子である[4]

  • チャールズ英語版(1729年 – 1809年)
  • パーシー(Percy) - 子供あり
  • ホレイショ・アーマンド(Horatio Armand) - 軍人、子供あり

脚注

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註釈

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  1. ^ 貴族院は本来、ベイジングのセントジョン男爵で招集すべきところを誤って、ベイジングのポーレット男爵繰上勅書を発行した。そのため新規にポーレット男爵位が創設される形となったが、彼が嗣子なく没したため爵位は廃絶して問題は解消した。

出典

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  1. ^ The Oxford Dictionary of National Biography, vol. 45, p.155. Oxford University Press, 2004
  2. ^ a b c d e f POWLETT, Charles II, Marquess of Winchester (1685-1754), of Hackwood, nr. Basingstoke, Hants.”. History of Parliament Online (1690-1715). 3 October 2018閲覧。
  3. ^ a b c POWLETT, Charles, Mq. of Winchester (1685-1754).”. History of Parliament Online (1715-1754). 3 October 2018閲覧。
  4. ^ a b c Burke's Peerage (英語) (99th ed.). 1949. p. 2154.

関連項目

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外部リンク

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イングランド議会 (en
先代
トマス・ドア
ポール・バーラード英語版
庶民院議員(リミントン選挙区英語版選出)
1705年 – 1707年
同職:ポール・バーラード英語版
次代
グレートブリテン議会
グレートブリテン議会英語版
先代
イングランド議会
庶民院議員(リミントン選挙区英語版選出)
1707年1708年
同職:ポール・バーラード英語版
次代
ポール・バーラード英語版
リチャード・チャウンドラー
先代
トマス・ジャーヴォイス
リチャード・チャウンドラー
庶民院議員(ハンプシャー選挙区英語版選出)
1708年1710年
同職:ウッドストック子爵 1708年 – 1709年
トマス・ジャーヴォイス 1709年 – 1710年
次代
ジョージ・ピット英語版
サー・シメオン・ステュアート準男爵
先代
サー・トマス・パウェル準男爵英語版
庶民院議員(カーマーゼンシャー選挙区英語版選出)
1715年 – 1717年
次代
サー・トマス・ステップニー準男爵英語版
軍職
先代
アーガイル公爵
ロイヤル・ハウス・ガーズ英語版隊長
1717年 – 1733年
次代
アーガイル公爵
新設連隊 ボルトン公爵の歩兵連隊隊長
1745年 – 1746年
連隊の解体
名誉職
先代
ペンブルック伯爵
グラモーガン統監英語版
1715年 – 1733年
空位
次代の在位者
プリマス伯爵
グラモーガン首席治安判事英語版
1715年 – 1733年
先代
カーベリー伯爵英語版
カーマーゼンシャー首席治安判事英語版
1715年 – 1733年
次代
サー・ニコラス・ウィリアムズ準男爵
先代
マンセル男爵英語版
南ウェールズ副提督英語版
1715年 – 1733年
空位
先代
ボルトン公爵
ドーセット統監英語版
1722年 – 1733年
次代
シャフツベリ伯爵
ハンプシャー統監
1722年 – 1733年
次代
リミントン子爵
先代
リンカーン伯爵
ロンドン塔管理長官英語版
1725年 – 1726年
次代
ロンズデール子爵
タワー・ハムレッツ統監英語版
1725年 – 1726年
先代
カドガン伯爵
ワイト島総督英語版
1726年 – 1733年
次代
モンタギュー公爵
先代
モンタギュー公爵
恩給紳士隊長
1740年 – 1742年
次代
バサースト男爵
先代
ジョージ・トレンチャード英語版
ドーセット副提督英語版
1742年 – 1754年
空位
次代の在位者
ボルトン公爵
先代
リミントン子爵
ワイト島副提督
1742年 – 1746年
次代
ポーツマス伯爵
ワイト島総督英語版
1742年 – 1746年
ハンプシャー統監
1742年 – 1754年
次代
ボルトン公爵
ハンプシャー副提督英語版
1742年 – 1754年
イングランドの爵位
先代
チャールズ・ポーレット
ボルトン公爵
1722年 – 1754年
次代
ハリー・ポーレット