スルト (リビア)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Nopira (会話 | 投稿記録) による 2012年5月28日 (月) 06:15個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎歴史)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

スルト

سرت
愛称: 
Al-Ribāţ Al-'amāmi (الرباط الأمامي)
スルトの位置(リビア内)
スルト
スルト
Location in Libya
北緯31度12分 東経16度36分 / 北緯31.200度 東経16.600度 / 31.200; 16.600座標: 北緯31度12分 東経16度36分 / 北緯31.200度 東経16.600度 / 31.200; 16.600
リビア
スルト県
標高
28 m
人口
(2009)
 • 合計 135,451人
スルト

スルト(Sirt、シルトシルテとも)は、リビアの都市。人口135,451人(2009年)。

概要

シドラ湾沿岸に位置し、トリポリタニア東端の都市である。スルト県の県都。トリポリベンガジを結ぶ幹線沿いに位置し、さらにここからフェザーンの中心都市であるセブハへの道路も分岐する要衝である。1942年ムアンマル・カッザーフィーがここで生まれた。

歴史

かつてシドラ湾は大シルティス(Syrtis Major、現在のチュニジアにある小シルティスとの区別のため「大」をつけられた)と呼ばれており、スルトという地名はこれに由来する。スルト周辺にはフェニキアの植民市マコメデス=エウファランタ(Macomedes-Euphranta)があり、地中海南岸の街道の要衝であったが、歴史的に重要な中心地となったことはなかった。

トリポリタニアに興ったカラマンリー朝の崩壊後、1842年オスマン帝国はトリポリタニアの支配再建のためにマルサト・アル・ザアフラン(Marsat al Zaafran、「サフランの港」)要塞を建設した。この要塞は後にカスル・アル・ザアフラン(Qasr al Zaafran、「サフランの城」)、カスル・セルト(Qasr Sert)と呼ばれた。1912年イタリアがこの地を占領した後、要塞は修復されその周囲にスルトの町ができあがった。スルトは第二次世界大戦後に石油採掘により小さな町から都市へと発展した。

スルトにある人民会議場(Mathābah al-Madīnah)

スルトの南20㎞のカスル・アブー・ハーディー(Qasr Abu Hadi)のテントで生まれ、スルトの学校に通ったカッザーフィーが1969年のクーデターにより権力を握ると、カッザーフィーは自らの親族や出身部族のカッザーファ部族から積極的に登用を行ったため、スルトはカッザーフィー政権の強固な支持基盤となった。カッザーフィーの根拠地であると同時にトリポリタニアに属するとはいえ中心からは遠く離れており、リビアを構成するトリポリタニア・キレナイカ・フェザーンの三地方からほぼ等距離にあるため、テント型の巨大な国際会議場ワガドゥグー・コンベンションセンターが建設され、行政機関や全国人民会議(国会に相当)等がこの町に移されるようになった。2007年10月にはダルフール紛争の講和会議がスルトで開催された[1]

2011年リビア内戦においては、スルトはカッザーフィー体制支持の姿勢を打ち出し、市民による反政府蜂起は起こらず[2]、8月23日に首都トリポリが陥落し、カッザーフィー政権が事実上崩壊した後も、カッザーフィー派が立てこもり抗戦の拠点とした。降伏を促す勝利したリビア国民評議会(反カッザーフィー派)の投降勧告にも応じなかったため、スルトでは両派による激しい市街戦が起こった。2011年10月20日、リビア国民評議会がスルトを制圧すると同時に、カッザーフィーを拘束(後に死亡)したことにより、内戦は幕を降ろすこととなった[3]

現在内戦は一応の終結を見たものの、スルトはリビア内戦で最大の激戦地となった事に加え、カッザーフィーを最後まで支持し、匿っていた事から新政府による復興支援の優先度は高いとは言えず、復興は進んでいない状況である。

脚注

  1. ^ "Sudan calls Darfur truce at talks", BBC News, 27 October 2007
  2. ^ BBC News (24 February 2011) "Libya protests: 'Gaddafi says Bin Laden to blame'"
  3. ^ リビア国民評議会が「解放宣言」へ、国民に結束呼び掛け ロイター・ジャパン 2011年10月21日閲覧