サイフッディーン・ガーズィー
サイフッディーン・ガーズィー(Sayf al-Dīn Ghāzī b. ‘Imād al-Dīn Zankī ibn Āq-Sunqur سيف الدين غازي بن عماد الدين زنكي ابن آقسنقر、生年未詳 - 1149年)は、ザンギー朝の祖であるモースル及びアレッポを所領としたセルジューク朝のアミール、アターベク・ザンギーの長男。ヌールッディーンの兄。四弟クトブッディーン・マウドゥードを継いだその息子もサイフッディーン・ガーズィーというため、彼自身をサイフッディーン・ガーズィー1世とも呼ぶ。
略歴
1143年、父ザンギーがセルジューク朝第12代君主のスルタン・マスウード(在位1134年 - 1152年)の命令によってルハー(エデッサ、エデッサ伯国)征服に派遣された際に、スルタン・マスウードからもうひとつ要求されていた宮廷への伺候義務に父の名代として、サイフッディーン・カーズィーはマスウードのもとに出仕している。
1146年にジャズィーラ地方の安定化のためバールベクから戻った父ザンギーがジャアバル城塞攻略中に近習のひとりヤルンカシュによって暗殺された。しかし、ザンギーは後継者の選定をせずに亡くなったため、ザンギーの領有地域の分配についてアミールたちやザンギーの息子たち、ザンギーによってモースルの領主に推戴されていたセルジューク朝君主マフムードの息子アルプ・アルスラーンがいたが、ザンギー麾下のアミールたちはほとんどがサイフッディーンか弟のヌールッディーンのもとに帰参してしまった。またサイフッディーンは父の存命中からスルターン・マスウードに仕え、サイフッディーン自身が自らの地位はスルターン・マスウードの庇護のもとにあると公言していたこともあり、マスウードからも直接支配権の認証という形で後援を得たため、サイフッディーンはセルジューク朝王族アルプ・アルスラーンを介さずに父からモースルとジャズィーラの支配を継承出来た。
一方、彼の弟ヌールッディーンはアレッポの支配を継承し、もうひとりの弟クトブッディーン・マウドゥードはディヤール・バクル地方をそれぞれ継承した。この年にサイフッディーンのもとに弟のヌールッディーンが訪れ、抱擁・号泣して和解し、兄サイフッディーンを年長者としてその命に帰服したという。同1146年10月から11月に父ザンギーの死によって一時支配を離れたルハーを再度征服し、ザンギーを殺害したヤルンカシュがダマスクス付近で捕らえられアレッポに送られると、ヌールッディーンは兄のいるモースルに移送されサイフッディーンはこれを処刑した。
1148年の第2回十字軍の際、彼はブーリー朝のアタベク・ムイーヌッディーン・ウナルの救援要請に応えてヌールッディーンとともに南に進軍し、ダマスカス防衛を助けた(ダマスカス攻囲戦、en)。サイフッディーンはムイーヌッディーンと別個に十字軍側に撤退するよう交渉を行い、十字軍側にバーニヤースを獲得させて撤退させている。一方でヌールッディーンは自ら率いるアレッポの軍とダマスクス軍と合同して十字軍諸侯領に侵攻し、戦利品を獲得すると兄サイフッディーン、セルジューク朝スルターン・マスウード、アッバース朝第31代カリフ・ムクタフィーに贈っている。
彼は1149年に病死した。彼の後モースルとジャズィーラの支配権はクトブッディーン・マウドゥードが受け継ぎ、以後この地域はマウドゥードの子孫によって支配された。
サイフッディーン・ガーズィーは年長者としてザンギー朝を束ね、存命中は弟のヌールッディーンやクトブッディーンらとの主従関係が維持されたが、特にヌールッディーンとは1146年の和平協定以降、軍事行動や戦利品の分配などで主従の秩序が保たれるように彼自身も配慮に努めたようである。
参考文献
- 柳谷あゆみ「ザンギー朝二政権分立期の研究―モスル政権の動向から」『史学』第71巻(第2・3号) 慶應義塾大学 三田史学会、2002年6月。