コルギス (オングト部)

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コルギスモンゴル語: Körgis中国語: 闊里吉思、? - 1298年)は、13世紀末に大元ウルスに仕えたテュルク系オングト部族長。大元ウルスの将軍としてカイドゥ・ウルスと戦ったが敗れ、捕虜となったことで知られる。

元史』などの漢文史料では闊里吉思(kuòlǐjísī)、『集史』などのペルシア語史料ではŪlāqūsh Tīkīn Qūrīاولاقوش تیکین قوریと記される。オングト人は代々ネストリウス派キリスト教の教徒であり、「コルギス」という名前もキリスト教の聖者聖ゲオルギオスに由来するものである。そのため、マルコ・ポーロモンテ・コルヴィノといったキリスト教圏の人物の記録ではゲオルギウス王とも記される。

概要

生い立ち

コルギスはチンギス・カンに投降したオングト部族長アラクシ・ディギト・クリの曾孫のアイ・ブカの息子に当たる。コルギスは武勇に優れるだけでなく学問にも通じており、私邸に「万巻堂」という建物を築いて日々儒者と経史、性理・陰陽・術数などについて討論していたという。オングト部族は始祖アラクシ以来代々チンギス・カン家と通婚する「キュレゲン(婿)」の家系であり、コルギスも裕宗チンキムの娘のクダドミシュと、チンキムの息子のテムル(後の成宗オルジェイトゥ・カアン)の娘アイヤシュリを娶った[1]

先祖代々キリスト教を信仰してきたオングト部族の存在は西方カトリック教圏から訪れた旅人の注意を引き、マルコ・ポーロは『東方見聞録』にて以下のように述べている。

テンドゥク(金代の行政区画「天徳軍」に由来する地名)は東方に位置し、境内に都市・集落を多く含んだ大州であって、カアンに隷属する。首府も同じくテンドゥクと呼ぶ。この地の王はプレスター・ジョンの末裔で、代々プレスター・ジョンを号し、カアンに服属している。現在の王は名をジョルジ(コルギス)といい、カアンの名代でこの地の統治に当たっているが、その領域はプレスター・ジョンの故国全体ではなく、わずかにその一部分にすぎない。しかしテンドゥク王としてとれを統治するプレスター・ジョンのこれら子孫に対しては、歴代カアンが自らの皇女もしくは宗室の王女を降嫁せしめてその妃とならしめるのが例となっているし、更にプレスター・ジョンはキリスト教徒である関係から、住民の大部分もまたキリスト教を信奉するようになった事実を特に御記憶願いたい…。 — マルコ・ポーロ、『東方見聞録』[2]

コルギスがプレスター・ジョンの末裔であるというのは明らかにマルコ・ポーロの誤解であるが、「代々カアンの娘を娶る」「キリスト教徒の一族」という点は東方の漢文史料と合致する。また、コルギスはカトリック布教のために大元ウルスを訪れたモンテ・コルヴィノと知己になり、彼の誘いによってネストリウス派からカトリックに改宗したという。

ナヤンの乱

コルギスが初めて活躍したのは1287年(至元24年)に勃発したナヤンの乱で、叛乱の首謀者オッチギン王家ナヤンに呼応したコルゲン王家エブゲンケルレン川流域の「チンギス・カンの大オルド(後の八白室)」に侵攻してきたのに対応した[3]。ナヤン・エブゲンの叛乱を聞いたキプチャク人将軍のトトガクは他の将軍がクビライの指示を仰いでから出兵しようとしたのに対し、「兵は神速を貴び、叛乱が事実ならば我々は敵の不意を突かなければならない」と語り、これに賛同したコルギスとともに即日出陣した。トトガクとコルギスは精鋭を率いて七日間疾駆し、トーラ川を渡ってブルカン・カルドゥンでエブゲンの軍と遭遇した[4]。その日、気温は暑く強い北風が吹いていたが、コルギスは「天は我々に味方している」と語り、馬に笞うって戦闘に赴き、トトガク・コルギス軍はエブゲン軍を大いに撃ち破った。コルギスは体に矢を3本も受けながら奮戦し、戦後その勇戦を讃えられて黄金3斤・白金1500斤を与えられた[5]

アルタイ方面での駐屯

1294年(至元31年)にクビライが死去してテムル(成宗オルジェイトゥ・カアン)が即位すると、コルギスは改めて高唐王に封ぜられた。この頃、大元ウルスと敵対するカイドゥ・ウルスではクビライの死去という大きな契機を経て情勢が変わり、大元ウルスとカイドゥ・ウルスの間での軍事的緊張が高まってきていた。そこでコルギスは対カイドゥ軍との戦いの最前線に赴くことをオルジェイトゥ・カアンに請い、再三にわたる要請の末前線に出ることを許された。この時、コルギスは「西北(カイドゥ・ウルス)が平定されなければ、我が馬を南に向ける(帰還する)ことはないだろう」と周囲に語ったという[6]

コルギスがカイドゥ軍との国境の最前線に駐屯したことは西方でも知られており、フレグ・ウルスで編纂されたペルシア語史料『集史』には以下のような記述がある。

東北[の方面]は、カイドゥとドゥアの側に接している。……東から順に諸王やアミールたちが軍を率いて駐屯している。最も東にはカアン(ここはクビライを継いだ成宗テムル・カアン)の父母[を同じくする]兄弟である皇子カマラが軍を率いて駐屯する。彼の次にはカアンの娘婿のコルギス・キュレゲン、彼の次にはクビライ・カアンの大アミールの一人であったトトガクの子のチョンウル、彼の次には同じく大アミールであったバヤン・クブクチの子のナンギャダイ、彼の次にはテムル・カアンの叔父のココチュ。そして、その次にはマンガラの子である皇子アーナンダが治めるタングート地方に到達する……。 — ラシードゥッディーン、『集史』クビライ・カアン紀[7]

近年、モンゴル国ホブド県ムンフハイルハン郡のウラーン・トルゴイという地にて「高唐王」や「大徳2年」と記された木簡が発見されており、コルギスの駐屯地は現ムンフハイルハン郡一帯であったと考えられている。

カイドゥ・ウルスとの戦い

1297年(大徳元年)、バヤスクの地で敵軍と会敵した時には授軍が至るのを待って戦うべきだとする配下の進言を退け、単独で敵軍を破って数百人を捕虜とする功績を挙げた。これを聞いたクビライは大いに賞賛し、自らも用いた最高級の貂裘・宝鞍などを賜った。1298年(大徳2年)秋、ココチュ、ナンギャダイ、チョンウルら対カイドゥ駐屯軍の諸将は冬が去るまで敵軍が襲来することはないだろうと兵を休めようとしたが、コルギスのみは「今秋は敵軍の襲来が非常に少なかったが、これは鷲が獲物を狙う際に姿を隠すようなものである。敵軍への備えを緩めるべきではない」と述べて反対した。しかし他の諸将はこれを無視して兵を休め、コルギスのみが守り固くして冬を迎えた。果たして、同年冬にカイドゥ軍は大挙して襲来し、酒宴を開いていた大元ウルスの軍団は大敗を喫した。守りを固めていたコルギスのみはこのような中で唯一カイドゥ軍を撃退できたが、敗走する敵軍を追跡する中で孤立してしまい、遂にカイドゥ軍の捕虜となってしまった[8]。 この時の戦いの模様を、『集史』は以下のように記している。

テムル・カアンの幸いなる即位の後、四年、バラクの息子のドゥアは一軍を率いて、テムル・カアンの国境を治めている上記の諸王及びアミールたちに向けて出發した。次の様な軍の習慣がある。警備兵がすべての拠点(Sübe)に留まり、最西にいるアジギとチュベイの據點から、東方にあるムカリの據點まで、駅伝が結ばれ、急使たちがおかれ、軍隊が現われた時には互いに報せを送った。 皇子ココチュ、チョンウル、ナンギャダイはともに集り、宴会し、座興と飲酒に耽っていた。夜、報せが届いた(が)、彼等は酩酊して、意識もさだかではなく、起ち上れなかった。テムル・カアンの娘婿のコルギス騎馬は自身の軍を率いて、起ち向った。敵はすぐに到着した。彼等は状況を知らず、また左右翼の諸々の軍は報せを受けず、道は遠かったので、合流しなかった。バラクの息子のドゥアは自己の軍を率いて、コルギスにうちかかった。彼(コルギス)と行を共にしたのは6,000人以上はおらず、ドゥアへの抵抗力はなく、うち破られ、山へ向い、敵は彼の後を追って、彼を捕えた。彼等が殺そうとした(時)、「私はカアンの娘婿クルクズ(である)」と彼は言った。ドゥアの軍のアミールは彼を殺さず、監視するように命じた……。 — ラシードゥッディーン、『集史』テムル・カアン紀[9]

虜囚として

カイドゥは建国以来の「婿(キュレゲン)」の家系たるコルギスに娘を嫁がせ自らの婿とすることで配下に入れようとしたが、コルギスは「我はオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)の婿である、どうして再び妻を愛ることができようか」と語ってこれを拒絶した。コルギスはその後釈放されることがなかったが、一度だけクビライの派遣した使者が面会することができた。その時コルギスはまず両宮(公主)の安否を尋ね、次いで我が子の安否を聞いたが、話し終わる前に監視者に連行されて使者と2度と合うことはなかったという。この面会を経て、コルギスは遂にカイドゥの誘いに屈することなく亡くなった。1305年(大徳9年)、朝廷は亡くなったコルギスに対して高唐忠献王と追封した。コルギスが捕虜となった時、息子のジュアンはまだ幼かったため、弟のジュクナンが跡を継いだ[10]

前述したように、コルギスをカトリック教徒に改宗させたモンテ・コルヴィノはコルギス死後のオングト部族の動向について多少言及している。

善きゲオルギウス王について。この地方のキリスト教ネストリウス派のさる王。彼はインディアのプレスター・ジョン大王の血筋にあたると言われていたが、私がここに来た最初の年私に付き従い、私によって真のカソリック信仰に改宗し、下級の位階を受け、私がミサを行う時は聖服を着て執り行い、そのため他のネストリウス派教徒たちは彼を背教者と非難した。しかし彼は、自分の国民の大きな部分を真のカソリック信仰に導いたし、王の偉大さに相応しい美しい教会を、我らが神と聖なる三位一体と教皇貌下を讃えて建設し、私の名にちなんでそれをローマ教会と呼んだ。そのゲオルギウス王は6年前、揺籠に世継ぎの子を残して、真のキリスト教徒として主の許に身まかった。その子は今9歳である。ところが、ゲオルギウス王の兄弟たちは、ネストリウスの誤りに惑わされ、王の死後、彼が改宗させた者を皆覆し、かつての分離派に戻した…。 — モンテ・コルヴィノ、モンテ・コルヴィノ書簡Ⅱ[11]

モンテ・コルヴィノによると、コルギスの死後当主となったジュクナンらによってオングト部族はカトリック信仰から再びネストリウス派信仰に戻ったという。

オングト駙馬王家

趙国公主

  1. 趙国大長公主アラカイ・ベキ(Alaqai begi,阿剌海別吉/Alāqāī Bīkīالاقای بیکی)…太祖チンギス・カンの娘で、アラクシらに嫁ぐ
  2. トゥムゲン公主(Tümügen,独木干)…睿宗トゥルイの娘で、北平王ネグデイに嫁ぐ
  3. 趙国大長公主ユレク(Yürek,月烈)…世祖クビライの娘で、ボヨカの息子趙武襄王アイ・ブカに嫁ぐ
  4. 趙国大長公主イェルミシュ(Yelmiš,葉里迷失)…定宗グユクの娘で、ボヨカの息子趙忠襄王クン・ブカに嫁ぐ
  5. 趙国大長公主クダドミシュ(Qudadmiš,忽答迭迷失)…裕宗チンキムの娘で、ブトゥの息子趙忠献王コルギスに嫁ぐ
  6. 趙国大長公主アイヤシュリ(Aiyaširi,愛牙失里)…成宗テムルの娘で、クダドミシュの死後コルギスに嫁ぐ
  7. 趙国大長公主イリンチン(Irinǰin,亦憐真)…クン・ブカの息子忠烈王ナンギャダイに嫁ぐ
  8. 趙国大長公主ウイグル(Uyiγur,回紇)…クン・ブカの息子趙康禧王コリンチェクに嫁ぐ
  9. 趙国大長公主アシ・クトゥルク(Asiqutuluq,阿失禿魯)…アイ・ブカの息子鄃忠襄王ジュクナンに嫁ぐ
  10. 趙国大長公主スゲバラ(Sugabala,速哥八剌)…ナンギャダイの息子趙王マジャルカンに嫁ぐ

脚注

  1. ^ 『元史』巻118列伝5阿剌兀思剔吉忽里伝,「阿剌兀思剔吉忽里、汪古部人……子君不花、尚定宗長女葉里迷失公主。……子闊里吉思。闊里吉思、性勇毅、習武事、尤篤於儒術、築万巻堂於私第、日与諸儒討論経史、性理・陰陽・術数、靡不該貫。尚忽答的迷失公主、継尚愛牙失里公主」
  2. ^ 訳文は愛宕1970,161-162頁より引用
  3. ^ 『元史』巻117列伝4牙忽都伝,「乃顔・也不干有異図、也不干引兵趨怯憐河大帳。王遣闊闊出・禿禿哈率衆追之」
  4. ^ 『元史』巻128列伝15土土哈伝,「既而有言也不干叛者、衆欲先聞於朝、然後発兵。土土哈曰『兵貴神速、若彼果叛、我軍出其不意、可即図之。否則与約而還』。即日啓、疾駆七晝夜、渡禿兀剌河、戦於孛怯嶺、大敗之、也不干僅以身免」
  5. ^ 『元史』巻118列伝5闊里吉思伝,「宗王也不干叛、率精騎千餘、晝夜兼行、旬日追及之。時方暑、将戦、北風大起、左右請待之、闊里吉思曰『当暑得風、天賛我也』。策馬赴戦、騎士随之、大殺其衆、也不干以数騎遁去。闊里吉思身中三矢、断其髪。凱還、詔賜黄金三斤・白金千五百斤」
  6. ^ 『元史』巻118列伝5阿剌兀思剔吉忽里伝,「成宗即位、封高唐王。西北不安、請於帝、願往平之、再三請、帝乃許。及行、且誓曰『若不平定西北、吾馬首不南』」
  7. ^ 訳文は村岡2016,91-93頁より引用
  8. ^ 『元史』巻118列伝5阿剌兀思剔吉忽里伝,「大徳元年夏、遇敵於伯牙思之地、衆謂当俟大軍畢至、与戦未晩、闊里吉思曰『大丈夫報国、而待人耶』。即整衆鼓躁以進、大敗之、擒其将卒百数以献。詔賜世祖所服貂裘・宝鞍、及繒錦七百・介冑・戈戟・弓矢等物。二年秋、諸王将帥共議防辺、咸曰:『敵往歳不冬出、且可休兵於境』。闊里吉思曰『不然、今秋候騎来者甚少、所謂鷙鳥将撃、必匿其形、備不可緩也』。衆不以為然、闊里吉思独厳兵以待之。是冬、敵兵果大至、三戦三克、闊里吉思乗勝逐北、深入険地、後騎不継、馬躓陥敵、遂為所執」
  9. ^ 訳文は松田1982,3-6頁より引用
  10. ^ 『元史』巻118列伝5阿剌兀思剔吉忽里伝,「敵誘使降、惟正言不屈、又欲以女妻之、闊里吉思毅然曰『我帝婿也、非帝後面命、而再娶可乎』。敵不敢逼。帝嘗遣其家臣阿昔思特使敵境、見於人衆中、闊里吉思一見輒問両宮安否、次問嗣子何如、言未畢、左右即引其去。明日、遣使者還、不復再見、竟不屈死焉。九年、追封高唐忠献王、加贈推忠宣力崇文守正亮節保徳功臣・太師・開府儀同三司・上柱国・駙馬都尉、追封趙王。公主忽答的迷失追封斉国長公主、愛牙失里封斉国公主、並加封趙国。子朮安幼、詔以弟朮忽難襲高唐王」
  11. ^ 訳文は高田2019,584頁より引用

参考文献

  • 愛宕松男『東方見聞録 1』平凡社、1970年
  • 高田英樹 『原典 中世ヨーロッパ東方記』名古屋大学出版会、2019年
  • 松田孝一「カイシャンの西北モンゴリア出鎮」『東方学』第64輯、1982年
  • 村岡倫「チンカイ・バルガスと元朝アルタイ方面軍」『13-14世紀モンゴル史研究』第1号、2016年
  • 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年
  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年
  • 周清樹『元蒙史札』内蒙古大学出版社、2001年