コンテンツにスキップ

クエリャル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Synthebot (会話 | 投稿記録) による 2012年5月19日 (土) 08:57個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (r2.6.4) (ロボットによる 追加: en:Cuéllar)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

'Cuéllar'

  


カスティーリャ・イ・レオン州
セゴビア県
面積 348.66km²
標高 857.93m
人口 9,861人(2009年)
人口密度 28.28人/km²


北緯41度24分00秒 西経4度19分12秒 / 北緯41.40000度 西経4.32000度 / 41.40000; -4.32000

クエリャルCuéllar)は、スペインカスティーリャ・イ・レオン州セゴビア県の自治体。クエジャルとも発音・表記される。

歴史

アルブルケルケ公爵家の居城であったクエリャル城

鉄器時代、標高の高いクエリャル城付近に定住地があったことがわかっている。ローマ時代の定住地跡は自治体内で発見されていない。

クエリャルの歴史は10世紀頃から明らかになる。アル=マンスール・イブン・アビ・アーミルen)が、村を略奪した上に住民を奴隷にしてアル・アンダルスへ連行したという。カスティーリャアルフォンソ6世が村を再建し、11世紀後半に再植民が行われた。これが現在の自治体の始まりである。1184年、アルフォンソ8世はクエリャルでコルテスを開いた。

13世紀には、クエリャルはスペイン北部有数の重要な町となっていた。羊毛貿易が町の経済を潤した。多くの邸宅やムデハル様式の教会がつくられたのはこの時代である。1256年、アルフォンソ10世はクエリャルに特権(es)を授けた。サンチョ4世亡き後、王妃マリア・デ・モリーナがクエリャルの領主権を相続した。幼王フェルナンド4世が成人するまでマリア・デ・モリーナが摂政制を敷いた時代は困難を極めたが、クエリャルは平和な時代をすごした。

14世紀半ば、ペドロ1世はフアナ・デ・カストロとクエリャルで結婚式を挙げた。王妃ブランカ・デ・ボルボーンがありながらのこの結婚は無効とされた。そのうえ、ペドロ1世は結婚初夜でフアナを捨てた。

1464年、エンリケ4世は寵臣ベルトラン・デ・ラ・クエバをクエリャル領主とした。後にアルブルケルケ公爵となったクエバの子孫がクエリャルを領有した。

17世紀、州内の他自治体と同じく、クエリャルの経済は停滞した。王家がマドリードへ移ると宮廷も移り、貴族たちも領地を離れた。この衰退に拍車をかけたのは、羊毛貿易の衰退、戦費調達のための重税、そして黒死病の流行であった。

18世紀、カルロス3世時代になって、町は次第に経済回復を見せ始めた。

19世紀、ナポレオン率いるフランス軍がクエリャルを占領すると、彼らはクエリャルの教会、修道院、城から宝物を奪い取っていった。

スペイン内戦期、早くから国民党軍の支配下に置かれたクエリャルでは、破壊行為から守られていた。クエリャル城には、友好関係にあったイタリア・ファシスト政権軍の本部が置かれ、彼らが去った後は監獄にされた。何年も後、城は結核患者の隔離病院、そして刑務所にと転用された。長きにわたる農業と牧畜の伝統を持つクエリャルは内戦後の困難に見舞われることなく、他地域からの人口流入もほとんどなく現在に至っている。

経済

穀物生産、野菜栽培、牧畜が盛ん。林業も行われる。

出身の著名人

ギャラリー