エジプト・イスラエル平和条約
エジプト・アラブ共和国及びイスラエル国との間の平和条約 معاهدة السلام المصرية الإسرائيلية הסכם שלום ישראל-מצרים | |
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通称・略称 | エジプト・イスラエル平和条約 |
署名 | 1979年3月26日 |
発効 | 1979年3月26日 |
主な内容 |
相互の国家承認、 中東戦争の休戦、 シナイ半島からのイスラエル軍・入植者の撤退 |
条文リンク | Egyptian–Israeli Peace Treaty |
エジプト・アラブ共和国及びイスラエル国との間の平和条約(エジプト・アラブきょうわこくおよびイスラエルこくとのあいだのへいわじょうやく、アラビア語: معاهدة السلام المصرية الإسرائيلية、ヘブライ語: הסכם שלום ישראל-מצרים)は、1979年にエジプトとイスラエルが締結した平和条約である。通称は、エジプト・イスラエル平和条約(エジプト・イスラエルへいわじょうやく)。
概要
キャンプ・デービッド合意に基づき、1979年3月26日、アメリカ・ワシントンD.C.で署名された。この条約の主な特徴は、相互の国家承認、1948年以来続く中東戦争の休戦、そして1967年の六日間戦争で占領したシナイ半島からのイスラエル軍及び入植者の撤退、であった。この協定はまた、スエズ運河におけるイスラエル船舶の自由航行と、チラン海峡とアカバ湾を国際水路として認めることが規定された。
重要性
- とりわけこの協定により、エジプトはイスラエルを正式に承認した最初のアラブ国家となった。1994年のイスラエル・ヨルダン平和条約により、ヨルダンがこれに続いた。
- この平和条約は、激しい論争の後に、エジプト大統領アンワル・アッ=サーダートが1977年にイスラエル訪問して、その16ヶ月後に調印された。画期的なキャンプ・デービッド合意の後にさえ、条約が調印されるという可能性はほとんどなかった。エジプトは、単独講和条約に調印しないようにアラブ諸国からの激しい圧力下にさらされていた。右派のリクードの党首でありイスラエル首相であったメナヘム・ベギンは、パレスチナの独立自治を許すような実際上の交渉のあらゆる枠組みを拒否していた。
- 同日結ばれた別個のイスラエル・アメリカ合意覚書において、アメリカは条約違反の場合におけるそのイスラエルへの関与、国連の役割、今後のイスラエルへの軍事・経済援助の提供について詳しく説明している。その後エジプトもまた、米国より軍事・経済援助を受け取った。
- 条約は、エジプトおよびパレスチナ自治政府との間の和平を連鎖させることを企画していたが、それは実行されなかった。
- サーダートはイスラエルとの和平条約調印後、同条約ならびにイスラエルとの国交樹立に強く反対する者によって暗殺された。
- エジプト世論では、反米・反イスラエル的な態度が強いけれども、エジプト政府としては同条約を維持することにより、対米関係の改善をもくろんでいるため、サーダート暗殺後に成立したムバーラク政権下においても、イスラエルとの国交それ自体は2011年現在に至るまで維持されている。