Wikipedia:井戸端/subj/記事の導入部に「~とは~である。」に統一すべきか否か

記事の導入部に「~とは~である。」に統一すべきか否か[編集]

近頃、記事名の導入部に画一的に「~とは~である。」に修正されることが多いようですが、各分野にはそれぞれのウィキプロジェクトで推奨されるスタイルがあると思います。それを議論もなく画一的にスタイルを統一しようとするのはいかがなものかと思うのですが、どうでしょうか。--61.214.132.154 2009年12月29日 (火) 06:46 (UTC)[返信]

例示してもらえますか?--Osu-mike 2009年12月29日 (火) 08:28 (UTC)[返信]
◆統一したがる人々はまあいるわけですが、トップダウンでWikipediaが動いてるわけじゃないんでどだい統一なんかできるもんじゃないし、あんまし論じる必要があることのような気がしないです。いかがなものかって、誰かがどこかで統一しようとしてがんばっちゃっていたりするんでしょうか。個人的には「体言止め」くらいまでは許容範囲にしてほしいっていうか、単に「である」をくっつけるだけの編集を草取りとか思ってほしくないなあとか思っております、はい。--Nekosuki600 2009年12月29日 (火) 11:58 (UTC)[返信]
こんなのとかですかね?確かにこれだけだと必要性を感じませんね。--ハッサン 2009年12月29日 (火) 13:29 (UTC)[返信]
コメント文体や用語の統一は広く正しく伝えるという意味において重要で、揃っていないとその資料の価値は下がり、論文では必ず規定されています(ただしWikipediaがそのレベルを求めるべきではない)。しかし、議論なしに統一すべきではありませんね。ガイドライン化してからの話でしょう。なお、そのときには全分野で統一できると思います。--いんでぃご 2009年12月29日 (火) 14:42 (UTC)[返信]
新手の言葉狩りでしょう。Wikipediaの編集ルールに根拠も発見できませんのでやりたい人に勝手にやらせておけば良いでしょう。どうせめんどくさいだけだし。ルール化できるとも思いませんし。ルール化の投票があれば反対の投票するだけだし、ルール化されて「体裁をまもらない投稿はすべてリバートされる」などと強行法規ができるともちょっと思えない(´Д`)ヤレヤレ--大和屋敷 2009年12月29日 (火) 16:17 (UTC)【揃っていないとその資料の価値は下がり、論文では必ず規定されています】というのはおどろきました。へー。--大和屋敷 2009年12月29日 (火) 16:17 (UTC)[返信]
コメント - 統一を強要する必要はない。が、かといって、そのような体裁修正のみを行う編集を差し戻したり、咎めたりする必要もない、と思います。まぁ確かに揃っていた方が、事典的には奇麗だと思いますが、その辺をどうするかは各人の裁量でしょう。やりたければやれば良し、やりたくなければそのままで良し。--ButuCC+Mtp «Sub Talk:AVI/I-90» 2009年12月29日 (火) 16:28 (UTC)[返信]
(追伸したらこちらも競合、申し訳ありません。なので大和屋敷さんの2009年12月29日 (火) 16:32 (UTC)のコメントを踏まえていません。悪しからず)
PS:もちろんそれで齟齬が生じるならばノートで議論などをすればよし。それぞれ自由に編集して、衝突したら対話する。要はごく一般的なWikipediaの編集姿勢通りで充分であって、取り立てて特別な対処法を講じる必要はないと思います。--ButuCC+Mtp «Sub Talk:AVI/I-90» 2009年12月29日 (火) 16:37 (UTC)[返信]
(競合しました)ちょっと興味あるんで文体と論文に関する資料ありましたらいくつかご紹介頂けるとありがたいです。ぐぐった所で[1]立命大学経営学研究科、[2]関西大学大学院商学研究科、[3]書籍広告(内容記事ナシ)、[4]大阪市立大学大学院・・・なぜ関西の大学ばっかり・・・[5]メディカル翻訳あと多数・・。ざっと見た限りでは「論文では文体は統一しろ、口語は避けろ、ですます調でなくである調がよい、文体が不統一だと評価が下がる」くらいしか書いてないような。百科事典の冒頭定義文を「●●とは●●である」に統一すべき、と主張するには根拠薄いかなあ。--大和屋敷 2009年12月29日 (火) 16:32 (UTC)Wikipedia:表記ガイドがありました。Wikipedia:表記ガイド#文体(考慮すべきガイドライン)。冒頭定義文の体裁については触れていませんでした。--大和屋敷 2009年12月29日 (火) 16:42 (UTC)表記の統一についても議論がありました(Wikipedia‐ノート:表記ガイド/過去ログ5)。膨大すぎてさすがに追えない(ノД`)--大和屋敷 2009年12月29日 (火) 16:45 (UTC)[返信]
文体や用語が統一されていないとなぜ価値が下がるかというと、まず文体や用語の統一は(内容を伝えるための)文章の基本中の基本でありそれを軽視するなら独りよがりの内容であろうということ。次に、内容が管理されていないこと。つまり、執筆者の好き勝手に書かれている可能性があるということ。以上でしょうね。ちなみに学術論文においては査読(チェック)が入るため文体や用語が統一されていないことはまずないでしょう。--いんでぃご 2009年12月29日 (火) 17:17 (UTC)[返信]
コメント そのような編集はわたしもよく目にしますけど、どちらが正しいというような性質のものではないと思いますので、単にそれだけの編集でしたらあまり意味はないでしょう。ただ、そこまで問題になるような編集だとも思いません。ガイドラインには今のところ根拠となる規定がなく、変更後の体裁が間違っているとはいえないからです。--長月みどり 2009年12月29日 (火) 18:24 (UTC)[返信]
方言の扱い(標準語と「方言」)だとか、「日本語」と「諸言語」の扱いだとか、問い詰めればWikipediaの基本方針(Wikipedia:基本方針とガイドライン)に、あちらこちらでチクチク障ってきそうなこともありそうなので、「Wikipedia:読者に役立つ記事を書く」(考慮すべきガイドライン)に踏みとどまる勇気と度量を持っておきたいところです。『ウィキペディアをより便利なものにするために、あなたが一番貢献できるような活動に携わってみてください』--大和屋敷 2009年12月29日 (火) 19:08 (UTC)[返信]
コメント「○○の一覧」 、「○○の××」 といった特集記事の類がありますが、こういう場合の冒頭文を一般の記事と同じにするのは逆に問題では。気の利いた人だと、「『○○の××』 では、××における○○について概観する。」 というような書き出しでスッキリ来ますが、「『○○の一覧』 とは、○○のリストのことである。」となると、何だか変ですね。--トトト 2009年12月29日 (火) 20:38 (UTC)[返信]
コメント想定外の方向に議論が向ってるなぁ。と。
問題提起者の云う「「~とは~である。」に修正される」について、それがどのようなものであるかについて具体例が見えてきません。これだけだとよく分かんないということです。
例えば「AはB」という文章を「AとはBである」に修正するというものを想定したとしてこれをパターンAとしましょう。Nekosukiさん以下はこれで想定しているようです。
次に「Cの一覧」とか「Dの歴史」というような記事があって定義文に単純にそれしか記述していなかったり、「Dの歴史について記述する」というのを「Dの歴史とはEである」のように修正するパターンが想定されると思います。これをパターンBとしましょう。トトトさんだけがこっちの方で想定されたようにお見受けします。俺も正直こっちの方で想定していました。これは特に「Dの歴史について記述する」のパターンでその記述方法がよろしくないのが幾つか思い当たるものがあったからです。ただしこのパターンでの記述について言及しているWikiprojectが見当たらなかったので「例示してもらえますか?」と伺った次第です。
というわけで問題提起者の再登場をもう少し待ってみまたいと思います。--Osu-mike 2009年12月29日 (火) 22:09 (UTC)[返信]
コメント その程度の修正は、議論不要だと思います。出来れば文体の統一は記事の執筆・充実と同時に行ってもらいたいです。しかしWikipedia:スタイルマニュアル (導入部)に適合した校正作業です。作業の分担や編集の練習と考えれば、特に問題とは思いません。--長島左近 2009年12月29日 (火) 22:50 (UTC)[返信]
そのようなマニュアルがあったんですね(´Д`)--大和屋敷 2009年12月30日 (水) 00:44 (UTC)[返信]
少数派なのかもしれませんが、個人的な感覚としては、記事の冒頭の定義文は「~である」ではなく体言止めにしてあったほうがしっくりくるケースが多いです。--貿易風 2009年12月30日 (水) 03:33 (UTC)[返信]
コメント既視感があるなと検索してみたら過去にこんな議論がありますね。私も 貿易風 さん同様、導入分の第一文は体言止めの方がしっくりきます。できるだけ短い文で書いて、第二文目に「である」「だ」で続けた方が読むときに流れが良く感じます。実際私が新規投稿した記事は全部そのスタイルになっています。個人的主観なので、私の書いた記事に体言止めを修正する編集がなされたとしても別になんとも思いませんが、その修正だけであれば正直不要だと思いますし、どちらかに統一しなければならないという性質のものでもないでしょう。--光舟 2009年12月30日 (水) 04:25 (UTC)[返信]
コメント冒頭部は単純明瞭に記述することが大切であると考えます。かなり文章表現力がないと、句点を使ってだらだらと長い文になり簡単明瞭から遠い表現に行きつくようです。体言止めは「格好良い」ですが、結局は文章の省略用法なので、省略された活用部分は連結された文脈からの推定や憶測により補われるたぐいのものです。つまり体言止めは読んだ時のリズム感の格好良さと(新聞などの省スペース効果と)引き換えに、複文が多発したり文脈構成の単純明瞭さを低下させる副作用があります。なので、冒頭部で使う場合はよほど文章表現力がないと「●●とは●●である」という表現以上に、読んでよく解るというメリットがある文章にはならないと考えます。統一する必要はないで゜すが、わかりにくいものは淘汰されるべきです。--あら金 2009年12月30日 (水) 06:07 (UTC)[返信]
コメント全然別方向かもしれませんが、平等な曖昧さ回避ページを持つ記事について、「○○は××である」(体言止めであっても同じ)という言い回しが気になっています。「いやいや、○○には××以外もありますよね」という意味合いで。最近関わったところの近隣記事を例に挙げると、「マジックナンバー」(曖昧さ回避ページ)の各記事のうち、「マジックナンバー (坂本真綾の曲)」とか「マジックナンバー (野球)」とかの冒頭導入分なんかがそんな感じです。多分「(この記事でいうところの)マジックナンバーとは……」と理解すべきなんでしょうけど。なので「マジックナンバー (フォーマット識別子)」では「……業界においてマジックナンバーとは……であり、様々な意味を持っている。ここでは……を意味するマジックナンバーについて説明する。」としてしまいました。--NISYAN 2009年12月30日 (水) 06:50 (UTC)[返信]
コメントNISYAN氏。全然別方向だし、そのような記述も全然不要。括弧つき記事の時点で、特に曖昧さ回避を経ないで直接到達する事が想定されない項目においては、その項目ではその分野限定の記述をした記述をすべき。Otherusesが不要である(Wikipedia:曖昧さ回避#分野名つき記事名の記事にはOtherusesは不要)のと同様。括弧なしの場合は、「○○の分野においては、……。これを、当項目で詳述する」のような記述が必要な場合もあるかもしれないが。貴殿がウィキペディアの各項目の独立性について全く無理解なだけ。もうこのような下らない議論は見たくないから。不要Otheruses除去以外に余計な手間をかけさせないで頂きたい。--Khhy 2009年12月30日 (水) 14:13 (UTC)[返信]
コメント同名で簡単に区別できない場合には、分野名つきの記事にも別け隔てなく {{Otheruses}} を付与する必要が有ると思っています。「同名の記事を検索した結果、自分が求めていない記事が出てきた挙句、他の記事があるはずなのにリンクが無いのは非常に不快だった」という経験からです。各項目の独立性」という言葉は、初めて目にしたように思えました。--Frozen-mikan 2009年12月30日 (水) 18:02 (UTC)[返信]
コメントご指摘に合わせて、記事の冒頭に示してあった「○○の分野においては、……。」をマジックナンバー(曖昧さ回避ページ)に「一見意味不明に見える情報を意味する言葉」という形で移動して【その項目ではその分野限定の記述】としました。ただ、そうすると検索エンジンからその個別記事に飛んできた読者にとっては、(曖昧さ回避ページに到達していないので)コンピュータ用語では「一見意味不明に見える情報を意味する言葉」をマジックナンバーと呼ぶのだ、という情報が記事内で示されていません。つまり、この言葉の由来が読者には見えてこないことになるので、結局記事内にはその記述が必要であろうと判断して(冒頭導入文ではないが)記事中に含めました。いずれにしてもご教示いただきありがとうございます。--NISYAN 2009年12月31日 (木) 01:01 (UTC)[返信]
コメント曖昧さ回避の対象ページの冒頭についてはNISYAN氏のスタイルを支持します。なぜなら、各記事は独立しておりそこでの完全(読者にとってより親切)な説明が必要だから。つまり***はこの他分野にもあるということを知らしめるべきだと思います。このようにみるとスタイルは分野別だけじゃなく場合によっても違ってきますね。実際にガイドライン化するなんて大変ですよ。--60.254.224.116 2009年12月30日 (水) 16:41 (UTC)[返信]
コメント 分野だけが補う程度に有るのは悪くないと思います。「~について説明する」という部分は余計な気がしますが。--Frozen-mikan 2009年12月30日 (水) 18:02 (UTC)[返信]
コメント NISYANさんのご意見には反対です。潔癖症が過ぎると思います。余計なことを考えずに、本文の執筆に集中すべきです。--長島左近 2009年12月30日 (水) 18:24 (UTC)[返信]
コメント様々な方からの指摘を再読の上で考えると、結局「冒頭導入文に含める必要はない」というだけで、記事中には必要な情報だと感じました。読者視点での本文執筆の結果、必要だと判断したから入れている記述について、記述場所が不適切という指摘であれば納得しますが、「余計なこと」と言われるのはちょっと心外です。--NISYAN 2009年12月31日 (木) 01:01 (UTC)[返信]
コメント良い体言止めと悪い体言止めというわけでは無いですが、本来避けるべきものというのは、語句の並び順を変えることで発生するような物だと考えています。例えばたまたま今日『用いるのは「フルンティング」という霊装。』というのを『「フルンティング」という霊装を用いる。』と直しましたが、こういう感じでもっと適切な語順(?)があるのに、体言止めになっているような物が本来問題視される体言止めでは無いでしょうか。
単純に「である」などが削れているだけというのは(つまり導入部におけるようなものについては)、そう問題視するような物ではなく、あっても良いし無くても良いと思います。まあ、ケースバイケースでその時に相応しいと思ったのを執筆者の裁量でやれば良いかと私は思います。--EULE 2009年12月31日 (木) 08:12 (UTC)[返信]

「~とは~である。」ではなく「~とは~のことである。」ではないですか?--121.87.123.96 2010年1月11日 (月) 00:31 (UTC)[返信]