Wikipedia:井戸端/subj/このケースは恣意的な誘導にならないのか?

このケースは恣意的な誘導にならないのか?[編集]

空気系という記事の発生・流行までの経緯節にある「2011年3月11日に東日本大震災が発生したが〜」という記述の是非を巡って頭痛さんとノートでやり取りをしましたが、最後頭痛さんに言われたので井戸端でみなさんの意見を聞きたいと思います。

その東日本大震災の記述自体除去を最初に提案したのですが、さらに一番疑問に感じたのは出典の1つであるサイゾーのこの記事とそれに基づく記述です。サイゾーの記事を使った理由が空気系作品とされる「けいおん」の映画の興行収入が東日本大震災の影響で他の映画が不振だった中で好調だった典拠になるからだそうです。なので記述を普通に読んだら宮台真司さんや宇野常寛さんらによる「空気系作品は東日本大震災の影響で流行らなくなる」という予測はその映画の興行収入を持って当たったとは言えないと解釈できると考えます。

しかし、サイゾー記事の題名や内容には「AKB商法」と書かれているため記事だけを読んだら映画の興行収入が良かった理由が「AKB商法まがい」の成功としか読めません。なので空気系作品の動向を示すのに不適切な題材だと意見したのですが、頭痛さんに「興行収入が良かった理由は関係ない」と反論されました。

私はサイゾー記事の使用に関して都合の良い部分だけを持ち出している並びに都合の悪い部分だけを中途半端(記事の題名)に隠す恣意的な誘導としか思えず問題だと考えますが、そう考えること自体ウィキペディアではちゃんちゃらおかしいのしょうか?--122.134.200.129 2013年5月8日 (水) 15:35 (UTC)[返信]

コメント その後ちょっと加筆して、該当の記述の節は「空気系#ブームの先」へと移動しました。さて出典の利用についてですが、私は以前122.134.200.129さんに対して述べたように、出典に書いてある内容を何から何まで記事に反映させる必要はないし、そうすべきではないと考えます。中立性に疑問符がつくような大衆誌を出典に用いる場合ならなおさらです。もちろん、中にはその主張がなされた出典が、一体どのような性質の書籍やウェブサイトによるものなのかを書くことが重要になる場合もあるでしょう。例えば進化論を否定しインテリジェント・デザインを肯定するような主張について書くような場合はそうかも知れません。ですが「その年の映画が不振に喘ぐ中、ある映画が突出して人気を集めた」という、数字的にも裏付けが明確な記述について「そのような主張をしているのは、ゴシップに群がる一部のマスコミに過ぎないのである」という注意書きを書き添えるようなことに何の意味があるのでしょうか?
一見明白なことでも、独自研究にならないために出典は必要なのは、言うまでもないことです。できれば良質な出典であるのが望ましいですが、該当箇所は出典に質を求められる内容ではないと考えます。一応、この状況を専門的に分析している文献も出典として追加しましたが、大衆文化については大衆向けの娯楽誌のような文献の方が、専門的な分析よりも短く分かりやすく簡潔にまとまっているのも実情です。たった一文のために専門家の詳細な分析を下手にかみ砕いて、発表済みの情報の合成になってしまう愚を避けるためにも、せっかくまとまっている内容を出典として利用しない手はないと考えますが如何でしょうか。--Kanohara会話2013年5月8日 (水) 18:52 (UTC)[返信]
コメント出典の記述は「こうした"急場しのぎ"の戦略に未来があるとも思えないが......」であって、「健闘」のような評価にはなっていません。不正確な引用と言われてもしかたがないでしょう。
そもそもサイゾーの記事では当該映画作品が空気系であることについて何も触れていないわけですから、「空気系」の記事で取り上げるべき情報ではないと思います。「映画作品Aがヒットした」という情報を元々の文脈から切り離して「(空気系作品である)映画作品Aがヒットした」と解釈されるような文脈に置いてしまうのは、不適切な情報の合成です。--Dwy会話2013年5月9日 (木) 23:13 (UTC)[返信]
コメント 中立性に欠ける内容と思います。ウィキペディアの記事の文脈は明らかに、「日常的幸せは魅力的であるがゆえに、空気系の『けいおん』は、震災後に他の映画が落ち込む中でも大ヒットしました」と言わんとしています。が、出典の一つである日刊サイゾーでは、ヒットの理由を「AKB商法まがいの戦略」としています。
前者の意見は評論家の実名を挙げ、一見したところ信頼性が高そうに見えますが、その実体は評論家の「感想」にしか過ぎず、日刊サイゾーの内容に対し、特に信頼性において優越するわけではありません。両論併記すべきでしょう。--221.189.23.200 2013年5月10日 (金) 02:20 (UTC)[返信]
コメント少し記事に手を加えてみました。ジャンル全体に関する説明のはずが特定作品の商業成績の分析に終始しているような印象が拭えなかったので、『映画けいおん!』に関する言及を別の節に移動しました。
出典として挙げられていた「日刊サイゾー」については、その主な内容を列挙すると
  • 震災発生以降、映画入場者数が大幅に減った。
  • 同記事執筆時点で公開が終了した作品中では、アニメ『コクリコ坂から』が42.9億円で興行収入トップ。
  • 他の映画会社より際立って不振の松竹作品の中では『映画けいおん!』が最も好成績。
  • 『映画けいおん!』は公開2日間の興行収入が際立って好成績(3.2億円)。様々な特典付き前売り券などでファンの購買意欲をあおる販売戦略(同記事中では「"AKB商法"まがい」という表現)が功を奏したようだ、と記者が言及。
  • そのような販売戦略に頼っていては松竹に未来は無い、と記者が言及。
といった感じで、記事『空気系#ブームの先』で取り上げられている各氏の論説との関連性はほとんど無いと思います。単に『映画けいおん!』の人気を示すだけなら他により良い出典がありますし、"AKB商法"と呼称する販売方法のターゲットである固定ファン客と一般層顧客との集客比率はここでの論旨には無関係なので(論旨としてコアなアニメファンも一般人も区別されていないので)省きました。
また、同節で取り上げられている各氏の論説の内容に含まれない「東日本大震災発生以降の映画興行が軒並み不振」という趣旨の言及を省きました。『映画 けいおん!』の興行収入は約19億円で、大ヒットという評価自体は出典にも記述があり間違いないものの、必ずしも他ジャンルの作品に勝っているというわけではありません(2012年上半期トップは漫画原作の実写映画『テルマエ・ロマエ』56億円、同期アニメ映画の上位は『映画ドラえもん』35億円、『名探偵コナン』32億円)。純粋に作品自体の評価でいえば私自身は『けいおん!』山田尚子監督の演出手法は傑出していると思いますが、それとこれとは別問題なので、商業成績に関して誤解を与えかねない記述は無理に加えないほうが良いと思います。--ディー・エム会話2013年5月10日 (金) 17:02 (UTC)[返信]
ディー・エムさんの修正後の版は「ブームの先」が前後で文脈が切れてしまっていますね[1]
ノートで述べたことを繰り返しますが、「邦画全体が不振であったこと」「その中で『映画けいおん』は健闘したこと」はその出典の中で確認できます。で、その出典がカバーしている記事中の部分は「映画の興行成績」一点なのであって「作品のジャンルや性質」に関わる部分ではありません。『サイゾー』の記事が作品のヒットの理由をどう分析していようが、記事の出典としては単に「比較的ヒットしたこと」の典拠としているだけですからそこは関係がないのです。普通に記事に出典を付けていれば当然理解できるところだと思いますが、利用者歴の長いDwy氏がそのあたりを理解できないというのはあきれますね。またDwy氏は「健闘」のような評価はされていない、と言われていますが、この「全体の不振」の文脈の中で「このヒット」とはっきり書かれている文面を「健闘した」という表現の典拠とするのが不正確だなどというのは読み取り能力が疑われます。文字通り「健闘」という言葉がなければ「健闘」の典拠にならないとでも考えておられるのでしょうか。
ディー・エムさんが補足されましたが、テレビ版が「空気系」と見なされたからと言って劇場版はそうとは限らない、という論点はありうるものではあったでしょう。しかし同じ原作、同じキャラクターで同じ監督が作った作品が震災後にヒットした、ということであれば、テレビ版のその後の展開としてその情報を併記しておくことがなんらかの情報の合成に当たるとは常識的に言って思われませんね。
公刊された情報源における特定の評論家の評言を「感想に過ぎない」とか無記名記事に優劣するわけではない、というようなことを述べられているIP氏の意見はまったく理解できるものではありません。あなた個人の感想を振り回して記事執筆者を問い詰めるのはいい加減やめていただきたい。
それからディー・エムさん。「邦画全体が不振であった」「その中で『映画けいおん』が健闘した」ということと「『映画けいおん』より興行収入が勝る邦画がいくつもあった」ということは論理的にまったく矛盾しません。もとの文も他のジャンルより勝っていた、というような趣旨ではなかったでしょう。問題になっている文の修正・検討はもっと慎重にお願いします。--頭痛会話2013年5月10日 (金) 18:02 (UTC)[返信]
コメント「公刊された情報源における特定の評論家の評言を『感想に過ぎない』とか無記名記事に優劣するわけではない、というようなことを述べられているIP氏の意見はまったく理解できるものではありません」との事ですが、では「感想」でなければ何なのでしょうか?統計調査を実施してそのデータを分析した上での仮説でしょうか?その調査分析方法を示してくだされば、「感想」は取り下げましょう。それができないのならば、(頭痛氏の表現を借りて)あなた個人の感想を振り回すのはいい加減やめていただきたい。
中立性を保つために、当該部分の"後"に「AKB商法まがいとの見方もある」の一文を加筆しました(当該部分自体を修正したわけではなく、また出典に基づく記述を勝手に除去はできないのでリバートなさらないように。念のため)。あと、「健闘」という執筆者による主観的表現も修正しておきました(これは合意不要でしょう)。--221.189.23.200 2013年5月11日 (土) 04:13 (UTC)[返信]
文脈に合っていませんでしたので、注記は注部分に移しました。評論家の特定の評を感想である、とみなすのであればそちらのほうに根拠が必要でしょう。「感想ではない証拠」というような屁理屈(悪魔の証明)ではなく。そのような根拠がWikipediaの方針・ガイドラインのどこに見つかりますか。
「健闘」などはいくらでも言い換えが可能ですのでこの点の修正については問題ないかと思います。--頭痛会話2013年5月11日 (土) 05:15 (UTC)[返信]
コメント 本文から「出典」へ押し出された私の加筆部分を、「注釈」へ移動しました。
なお、「悪魔の証明」を例に出していますが、全く逆です。「ただの感想文と思われたくない側」に証拠を出す責任があるのですよ。証拠のない見解は、誰が言おうが「感想」です。実名を出したからといって、「顔パス」でそれが証拠になるわけではありませんよ。でも、評論家の実名と無記名の差等を考慮して、日刊サイゾーの記述は「注釈」ということでいいです。--221.189.23.200 2013年5月11日 (土) 06:47 (UTC)[返信]
逆ではありませんよ。評論家や研究者の評言を「感想」と見なして除去の理由とするの方に根拠が必要です。あなたの言っていることを裏付ける方針上の文言はどこにもありません。--頭痛会話2013年5月11日 (土) 06:54 (UTC)[返信]
コメント 逆ですよ。根拠のない意見のことを「ただの感想」といいます。「顔パス」で立証がOKならば、学術論文の類はさぞかし読みやすくなるでしょう。データの集計方法や、分析の方法をくどくど述べる必要がなくなりますから。
それに私は、「除去」など一切してませんよ。評論家の(根拠無しの)見解も、無記名の(根拠無しの)見解も、信頼性においては大して違わないので、出典に基づく記述なら後者も載せるべきと言ってるだけです。出典に基づく記述を、(除去ではないものの)勝手に「本文」から消したのは頭痛氏の方ですが。--221.189.23.200 2013年5月11日 (土) 07:12 (UTC)[返信]
ええ、要するに「顔パス」で「立証」はいりません。問題は「情報源」が信頼できるものであるかどうかだけで、基本的には個々の言論の正確性をそれ自体で検証する立場に我々はありません。あなたは自分が学者の論文等を査読して評価をつける立場にあるとでも思っているのですか。で、その論文なり評なりを否定する別の・同じくらい信頼性のある情報でもあるのであればそれは併記するべきであって、それが「両論併記」ということです。ある程度著名な評論家の記名による発言と無記名の記事が「信頼性においては大して違わない」というあなたの意見には何の根拠もありません。
第一、問題になっているのは複数の評論家の「予測」です。予測に立証も何もありません。--頭痛会話2013年5月11日 (土) 08:45 (UTC)[返信]
 返事は当該項目のノートでします。--221.189.23.200 2013年5月11日 (土) 09:09 (UTC)[返信]
なんでもいいですが、編集履歴のない可変IPでいくら頑張っても助力は得られないと思いますよ。--頭痛会話2013年5月11日 (土) 09:27 (UTC)[返信]
なんでもいいのなら、「議論内容とは全く無関係」のコメントは、しなくていいと思いますよ。--221.189.23.200 2013年5月11日 (土) 23:52 (UTC)[返信]

コメント落ち着いてください。

空気系#ブームの先」という記事・節のタイトルなのに、双方とも趣旨が変だと思います。もう一度確認いただきたいのですが、

  • 伊藤遊氏の発言の出典である産經新聞の内容[2]は、『けいおん!』という作品の人気が社会現象としてファミレスのメニューや旅行会社のツアー企画など異業種にも波及しているという趣旨であって(ファンである私が見てもかなり大げさな書き方がされていて内容に若干違和感はありますが)、映画の興行成績に関する言及は一切ありません。なのに、映画がヒットしたという話と伊藤氏の話を連ねて書いてしまっているために、まるで伊藤氏の言説が映画ヒットの理由について解説しているものであるかのように誤解されかねない文章になっています。
  • そもそも伊藤遊氏の言及対象は『けいおん!』という作品(テレビ第1期から映画、音楽アルバム等を含む作品全体)であって、「空気系」とか「日常系」と称するジャンル全般に関する言及は一切含まれていません。記事「けいおん!」への加筆を検討するのであれば分かりますが、「空気系#ブームの先」という記事・節の中でジャンル全般に関する各氏の見解と同列に併記することにそもそも無理がある(映画の話を挿入したりして論旨がつながるように見せようとすることに無理がある)と思います。
  • 『映画けいおん!』の販売方法等について書かれているサイゾーの言及は、あくまで初動2日間の興行収入3.2億円に対する説明であって、当該作品の全体売り上げではありません(2011年12月時点の記事ですから当然ではありますが)。しかもそのような販売方法がジャンル全体の傾向であるかのような言及はどこにも書かれていませんから、「空気系#ブームの先」という記事・節の中で記述すべき内容ではないと思います。ちなみに記事「けいおん!#興行成績 」にはすでに他の出典も加えて当該の記述がありますよ。その他の出典も、そもそも興行収入全体や購入者の内訳など実数のデータ分析に基づいた言説なのかが非常に怪しいですし(固定マニアの囲い込みだけで売り上げ20億円を賄うというのはさすがに非現実的な想定でしょうし、もしそれが実現できるとすれば逆に凄まじい経済価値のコンテンツですし)、販売戦略に関する事実報道は別に批判ではないと思いますが、記述内容そのものについてはここでは論点外なので出典に基づいて記事「けいおん!」のほうに書く分には内容は別にどっちでも。

編集合戦→保護となっているようですが、当該記述は保護解除後にどちらも除去で良いと思います。--ディー・エム会話2013年5月12日 (日) 01:33 (UTC)[返信]