Wikipedia:井戸端/subj/「小演劇・劇団の項目の書き込みは、何故、進まないのか!」

「小演劇・劇団の項目の書き込みは、何故、進まないのか!」[編集]

感情の入らない芸術ってあるのだろうか。関係性のない関係ってあるのだろうか。と私は思った。 文学の芥川賞、直木賞は、「友情」から生まれました。自らも力のある作家で、経営能力あった菊池寛が、 一緒に闘った戦友の仕事を宣揚することと、新しく来た表現者に文学の道をめざす事の励みになるようにと、 自ら出版業を起こし、幾ばくかの金を出してそれは出発した。

その意を汲み、気を感じて、その後に続いた新しい表現活動。大衆に受けいられる表現行為が、やがて、 「権威」なるものを派生させたのかも知れませんが、最初から「権威」があったのではなく、 「権威」をめざしたのでもありません。そこには「未開拓の表現の原野」しかなかった。

演劇の「岸田戯曲賞」も同じであって、この戯曲作家の書いたものは、今、読んでみても新しいです。 「なるほど」と思わされることが書かれています。演劇を目指す「若い同志」が、この道でつまずきそうなところや、 壁に当たって立ち止まる、それを乗り越えるアドバイスが書かれていてその行間からは、時には、激しく、厳しく、 同じ道を歩んでくれる友人への愛情を強く感じます。「俳優修業」を記したスタニスラフスキーにも言えることですが…。

それが時を経て、「尊敬」が他の分野の人から見ると「権威」に見えるとすれば、それはそれで良いのでしょう。 最初は文学も食えなかったが…、やがて、食えるようになった。

演劇は未だに劇団では食えてない。だから「劇団は表現の道場」です。個人が売れてくると、劇団以外で営業をしていますね。 劇団自体は食えていません。食える食えんを言及するのはひとつの目安になるからです。劇団四季は置いときましょう。 一般的にお金の入ってくること(商行為)を広めることを「宣伝」と言いますが、この分野は、商業演劇と言えないものが多い。 食えないからと言って、値打ちがないかと言えばそうとも言えない。だとすると、オペラやバレーはこの世から消えてしまう。

たとえば、詩人で劇作家で小説家の宮沢賢治は生きているうちは、一銭も入って来なかった。値打ちが無かったのだろうか。 今では、故郷を大いに潤している。新美南吉はどうだ。

新劇、小演劇にあっては、数ある劇団のそれぞれが、「どういう方向の表現を追求しているか」に触れることを「宣伝」と一言で 切り捨てられたんじゃ、劇団関係者は「激怒」するだろう。ここに意識のずれがあると「演劇」に関しては「ネットの百科事典化」は 無理ではなかろうかと思います。演劇関係者は、百科事典作りに協力しないと思います。既に、色んな表現媒体がありますから。

さらに協力しない。大きな理由は、活字文化、学術方面との永いつき合いです。具体的には、出版社、編集者、評論家、学者。 これらの人々も、もとは「仲間、戦友」であって、ある時代のある表現方向を開拓した「心かよう同志」です。 Wikiの管理人はわがままな暴君みたいで、到底、大人の振る舞いだと思えない。待って、熟す事を考えない。だから、 友情は生じにくいのだ。システムです。情報をハンバーガーみたいに、マニュアルに沿って処理している。処理です。処理。 これは、無償の行為では問題だ。

小説なら編集者から作家になった人達も多くいる。文学村の内実を誰もが知悉している。仲間に対する愛情と理解です。 作家同士の喧嘩も表面上あまり見かけないのも、小説には長い歴史があり、棲み分け、分類がある程度なされ、 「私はこの方面を開拓しているのだ。」という意識が確立してきたからでしょう。良いか悪いかは解りません。 相手は「表現」ですから。「固定化」は、「現状打破の芸術」には、あまり良いものをもたらしません。

戦後の演劇は、「左翼運動」と「新劇の一部」。「新劇の要素」、「小演劇」、「アングラ芝居」等の「表現の多様性を追求する運動」 「美術」、「音楽」、「ダンス」、「舞踏」等の「前衛芸術運動」。「新派」、「新国劇」「演芸」と、「軽演劇」、「新喜劇」、「大衆演劇」、と 「娯楽映画」。「テレビ、ラジオ」と「プロダクション等」

今、「小演劇に限定して語る」とすれば、「政治と表現が近かった時代」「古い演劇と言われるモノを仮想敵とした前衛美術、 パーホーマー、アングラ芝居、舞踏等の新しい表現の模索」。具体的には、戦後の前半は「新劇俳優の映画、テレビへの進出」

万博以後は「小演劇運動」、「それぞれが、ダンスや子役や俳優座、青年座、舞芸、その他を経験してきた人々が劇団を 旗揚げする。学生演劇をやっていた人々が劇団を旗揚げする。その仲間が情報誌、雑誌、文化企業、箱物行政期の劇場運営 、雑誌、演劇雑誌、大学の教員と評論。要するにみんな「ある時代の芸術を共有した仲間」なのです。

だからWikiがアカデミックや「権威」を求めるのならば、「その人たちのアドバイス」を求めべきであり、「劇団と関係のない人」 「客観的記述の出来る人」は「言葉のみあって実体のない発言」であって、「小演劇を知悉した中の人が色々の方面に配慮して 書いた記事」が一番、客観的と言える記事なのです。Wikiの中に一人位は「小演劇活動を知悉」して、「感の働く人がいて当たり前」で、 でないと、「この媒体は、あかんで、自己矛盾を起こしとる。」となる訳です。生の情報の無いところからは、本当の百科事典は作れない。 大学の教授が眉をしかめるのも、知の殿堂の守り人としての、彼らの立場を考えると無理からぬ事であります。だから

「本や書籍やネットからの引用」になる訳です。「小演劇の現場にいた人」が参加してくれると、「理解している範囲の正しい情報、 今なら出せるエピソード等」も得られる訳ですが。今の、Wiki日本のメンバーの陣容では、資金的にも、人脈的にも到底無理でしょう。 せめて、書いて欲しい項目のフォーマットぐらい作って、演劇関係者に余計な時間をとらせないようにすべきでしょうね。

上から目線と、規則ロボットは、演劇関係者を不快にさせるだけで百害あって一利なしだと思います。 その分野の専門家でもない人が情報を操作することに、危ないものを感じるのは私だけでしょうか。 私が使えると思い、リンクした情報の書き手は、随分忍耐力のある人だったのだと今さらながら思う。 某サーバーに、Wikiの寄付リンクを馬鹿正直に貼っのですが、外されていた。そこには、何があるのだろうか。 つまり、あまり良く思われていなかった。この大手レンタルサーバーさんは、Wikiに対するどういう情報を掴んでいたのだろう。

「求める人がいるかぎり行って芝居をし続けたように」「無償の行為が無償であることが良いと人々に納得させる地点」まで、 やるしか無いでしょう。

分野によっては、百科事典だからって感情が入ってはいけないなんて事になりません。それは百科辞典への固定観念です。 活字だってビジュアルを全面に出す百科事典等、随分模索してきました。

最低、知りたいのは、「その劇団は、どんな芝居をするか、したか。」の記述です。それを感想だで、かたづけられると困るのです。 関係者にはこれだけで、「○○年頃に××が演っとった芝居やなぁ」とか「おっ、新しそう、見てみるか」と、なる訳です。 それじゃー記述が少ない、一般の人に解らないと仰るならばブログのアンケートみたいに、項目に書き込む方法が良いと思います。 演劇関係者はブログもめんどいと言う人が8割です。多分、他の劇団の項目分けを参考に演劇周辺が許可を得て書いているの だと思います。この許可を得る作業がいかにめんどいものか。だからC書房の名物編集長が、物故者。亡くなった作家ばかり 集めて、作品集を組んだ。それが当たった。最初にやったからね。誰でもめ事、折衝事は、めんどくて嫌なものです。

言葉と肉体で表現する人々だからでしょうか。私は自分の分野の作業を抱えながら、演劇関係のお手伝いをしていますが、 なかなか、この手のことが出来る人材が、中から出て暮れません。早く出てきてくれて私は自分の作業に打ち込みたいのです。 ここは、公演記録も24年間ほったらかしです。だからと言って公演を打たないのではなく、年6~8本、演っています。

この世代と、この世代を訓練した世代は、「舞台は消えもの意識が強いのか」、済んだ記録を大事にしないのか、手が回らないのか。 次の公演にしか興味がない。書き込みのない劇団には共通要素があります。交友関係もダブっていますね。 良く言えば、「演劇の最前線に立ち続けているのです。」止めたら、書くでしょうか。否です。この世代は書かないでしょう。 今、書かないものは、先でも書かない。「舞台を生きに行く」「瞬間、瞬間を新しく生きる演劇」をめざした世代は、それが ひとつの哲学なのかも知れません。

何々賞は、永く演っている劇団は、一つや二つ、貰っているもので、演劇人はシャイなのと、これからの人への配慮のために 敢えて書きたくないのです。後輩を育成する立場の演劇人の書き込みがないのは、この辺りの配慮がないからでは無いですか。

権威は求めるところにやってこない。」「来るときはうんざりする程やってくる。」だから、S氏は一杯貰っている訳です。 B氏も一杯貰っているのです。だけど、「権威」が付くと呼ばれたら行かなきゃならんのです。あの年で大変だと思います。 たかだか5年といっちゃ失礼でしょうが、Wikiが、今、「権威」を必要とする意味があるのでしょうか。ちゃんとした百科事典を 作るのであれば、演劇の専門家や大学の演劇研究者に要請しなくてはなりません。そして、これは、日本支部のみでは 出来かねる事です。最初からできっこないことをやろうとしています。時間をとられますが、形を整えることぐらいは出来ますね。 だけど、今の現状を知ってしまったからには、専門家を入れず、著作権もとらず、どういう百科事典を作ろうとするのか 一度、再考して下さい。ここらがWikiの曲がり角だと思います。私はネットでリンクするとき、この頃は、反対意見も載せ、 対比させています。取りこぼした所は、後日、その事をテーマに書いています。サブカルチャーで良いんじゃないですか。 情報は主体があり、どこかの群れをの利害を代弁しています。だから、ぶつかる辺りに真実が見える。政治の季節を 通過してきた者の触角です。情報をオープンソースだと見て、権利を放棄させるのは、ある種の宗教的行為です。だから なんでもオープン、なんでも放棄、世界の為に、解放、解放は駄目ですね。集団は大きくなると裏で儲ける人が必ず出ます。

どうせ、大学から嫌われ、三次資料と言われているのだから、そのうち、誰もが他国の人と自由に話せる時代がくるでしょうから。 体制が流さないものを含んだ百科事典を目指す方向も良いのではありませんか。ネットの利点は即時性と変化です。

宮沢賢治の詩の中に「未完成の連続体」という言葉があります。「未完の完成」とも。

ものを動きの中で捉える思考は東洋人の得意とするところです。書いた途端に古くなる百科事典の方が新しいんじゃ無いですか。 その為には、参加しやすい形を考える方が得策だと私は思いますね。原稿料を出さずに、貴重な情報を提供して下さい。 うちは検閲が厳しいですよ。規則も厳しい。ロボットは、こちらの決めたやり方から、少しでも外れたら、容赦なく、警告しますし、 間違いには、直ぐさま、赤い札を貼って晒しますから。面白いことやオリジナルの創作は駄目ですよ。やった公演のことをそのまま なぞって書いて下さい。特に賞は良いですね。解りやすい。マスコミに取り上げられた事とか。Sさん参加する。Rさんはどうですか。 みなさんどうします。めんどいことは芝居だけで充分や。勘弁して欲しい。「死んだ良いインディアンを当たってくれい!」 もうこれ以上、システムはいらないね。人間関係が希薄に成るだけだ。これは、演劇にそぐわないね。

信仰は、個人の最後の砦です。個人の魂が信仰の対象と直接向かい合う。そこには、組織もなければ、こう解釈しなさいと いう仲介者も居ない。必要ない。演劇は、この社会にあって、個人が人間性を守る最後の砦です。壊してはなりません。

jimu1986は、COM事務局の裏方事務をするメンバーの名称で、個人名ではありません。今回は(s)が担当しました。 裏方はあくまで裏方であって、本来表に出てくるものではありませんが、誰がこの記事を担当したかを記す為に、署名します。 2010.7.7 jimu1986(s)--以上の署名のないコメントは、Jimu1986会話投稿記録)さんが 2010-07-07T09:15:37(UTC) に投稿したものです(Sakoppi (会話投稿記録)による付記)。

  • このページ(井戸端)は、ウィキペディア日本語版について、運営や方針、新しいアイディアや作業の仕方、その他様々なことで質問や提案、議論、意見交換を行なう場所です。ウィキペディア日本語版、もしくはウィキメディア・プロジェクトと関係のない話題を投稿するのはご遠慮ください。--大和屋敷 2010年7月7日 (水) 09:15 (UTC)[返信]
  • (小生からもコメント)演説なら、ご自身のブログかウエブサイトでお願いします。なお「Wikipediaでなぜ小劇団の記事が充実しないのか」の理由については、幾つかあるでしょう。まず、それら小劇団が百科事典に載せるに足る実績がない(いうなれば小規模すぎて扱いようが無い)こと、次いでそれら劇団を扱った客観的中立性を持つ文献が限られること(検証可能性というガイドラインがあります)、また書き手の姿勢如何では「百科事典的でない記述が書き散らされ」て、百科事典的でないとか中立性が無いとか宣伝的令色に彩られた(中立性に欠く)宣伝行為として除去される…などがあります。ウィキペディアは百科事典以外を目指していないので、公演の際に配られるリーフレットのような過剰な持ち上げや客観性を欠いた煽り文句も不適切ですし、更には事実かどうかも第三者視点で確認不可能な「僕の視点でのレビュー」なんていうのも必要とされません(ガイドライン「独自研究は載せない」を参照してください)。百科事典としては、客観的事実を淡々と説明し、それも他者がその内容の正しさを測ることが可能な出典が明示されていることを良しとします。『これは、演劇(小劇団による芸能?)にそぐわないね。』とのことですが、それに関しては明確に「はい、その通りですね」とお答えしましょう。百科事典はアートを発表したり宣伝する場ではないのですから。--夜飛/ 2010年7月7日 (水) 09:18 (UTC)[返信]
  • 長い文章ですので、文章の前後にレジュメ形式で概要を記されてはいかがでしょうか。読者は概要を読んで興味を感じたら本文にも興味を示してくれるかもしれませんよ。--人権 2010年7月7日 (水) 11:40 (UTC)[返信]
  • 百科事典というものは「注目してください」と掲載するのではなく「こんなに注目されてますよ」と掲載するものです。--61.27.83.159 2010年7月7日 (水) 11:53 (UTC)[返信]
  • jimu1986さんは、このサイトを「ネットで有名な情報集積の場所」程度にしか考えておられないのかもしれませんね。誰でも編集できる百科事典という特殊なサイトですから。しかし、記事を編集することは誰でも出来ますので、感情的な思い込みや演説をしない限り、大いに演劇関係の記事の充実のために活動されることを願います。日本語版ウィキペディアは、マイナーなゲームやライトノベルの記事がたくさん創られていると言う現状がありますし、劇団が実績がないから載せるなみたいなことは言えません。特筆性というものについて議論になってはいますが、これだけ特筆性のない記事だけで項目を増やし続けた場所においてそのような話をするのは無意味だとも思います。今更それらの記事を全て再審査せよなどと言うおつもりなのでしょうか(これは別に誰かに対して言っているわけではないのであしからず)
  • まぁなんにせよ、専門的な方がウィキペディアに参加するのは(ルールを守って頂ければ)歓迎されています。--冬ぐらたん 2010年7月7日 (水) 13:45 (UTC)[返信]
  • 文芸作品に関する記事って、難しいとおもう。
    たとえば、いま手元にある聖悠紀超人ロック』Vol. 1「ニンバスと負の世界」(1978年作画グループ刊) は、1967年9月脱稿の漫画同人誌掲載稿を復刻したものなんだけど、同作品が『週刊少年キング』に再掲載されるかたちで連載を開始したのは1978年のことです。その後すくなくとも第4部「コズミックゲーム」までは、ストーリーも作画もすでにできていたものを、商業誌向けに書き直したものであることが、作品を見るとはっきりわかります。ストーリーも細部のコマ割りもきわめて似ている。
    文芸作品 (漫画も演劇もとりあえず文芸作品ということにします) では、このような「同人/アングラ」と「商業誌/興行」との両方にまたがって業績をあげる例がきわめて多く見られます。短歌なんかではもっと顕著で、商業誌上の歌評欄でも、同人の会報 (つまり同人誌) があたりまえに取り上げられています。そのほうが多かったりすることも普通です。
    このような性格をもつ文芸作品ですが、それに関する記事のウィキペディアへの掲載の可否を分けるものはなにかというと、「批評」の多寡だとおもいます。その作品がどんなに素晴らしいかをいくら述べても、それは独自研究でしかない。それに対する批評を集めて紹介するのなら、それは立派な記事だとおもいます。
    逆にいうとそういう点では、現在のウィキペディアでの文芸作品についての記事 (これには漫画、演劇、詩歌や、もちろん小説なんかも含みます) は、記事の体をなしていないものがほとんどだとおもいます。ストーリー紹介なんかいらないから、批評を紹介してほしい。それができないのなら記事にするな。
    ものを投げないでください。--Hatukanezumi 2010年7月7日 (水) 13:56 (UTC) typo--Hatukanezumi 2010年7月7日 (水) 14:56 (UTC)[返信]
  • 「郷に入らば郷に従え」という言葉があるように、何かを成したいのであればその舞台に合わせた手段を選択すべきだと思います。例えば、新入団員が「ここの規則はおかしい」と言って好き勝手に振舞っていたら、その団員の行動が正当となるようなルール改正をわざわざしてあげますか?
    ちなみにウィキペディアにおける「宣伝」とは一般的にイメージされることの多い「営利行為」ではなく、原意である「知名度の向上」として使われるようです--Adequate 2010年7月7日 (水) 15:42 (UTC)[返信]
  • コメント 単に、『演劇ぶっく』とか『シアターアーツ』などの演劇雑誌を出典とした客観的な記事にすればいいだけでしょう。場合によっては中立性に配慮した上で、それらに加えて劇団等自身によるパンフレットなども参考に出来るかもしれませんが、検証可能性等からは相当難しいでしょうね。--ろう(Law soma) D C 2010年7月8日 (木) 09:46 (UTC)[返信]
  • なかなか面白い読み物でした。全部返します(出来る限り要点を拾いましたが抜けてたらゴメンなさい)
1. 劇団の追及する表現について触れると宣伝と切り捨てられる。
劇団ではなく劇表現として、確立したものを、数多く文献を集めて、書いてください。 目的地が間違っています。(過疎記事でも見つけてメンテしている皆さん。ありがとう)
2. 管理者は、システマチックに動く暴君であり友情を生じない。だから関係者が協力しない。
「管理」を辞典で調べることを、お勧めします。管理者も管理と離れた作業の時は、結構人間味が見られるのですが...。(オンオフ切替の大変な管理者の皆さん。ありがとう)
3. アカデミックや権威を求めるのならば~大学の教授が眉をしかめるのも~
wikipediaは起点であっても原典にしないという意見もありますし。おそらく今後も縁が無いでしょう。citizendiumなら縁が深いかもしれません。(執筆者、閲覧者、ドネータ、他、プロジェクトに触れている皆さん。ありがとう)
4. 百科事典に表現があってもいい~活字だってビジュアルを全面に出す百科事典等~
表現たっぷりですよ? 「この本から情報をまとめよう~まとめた」という時点で保護に値する表現もありうるんですよ。 写真なんて、もっと気を使うでしょうね。(コピーレフトで提供してくださっている皆さん。ありがとう)
5. 最低でも「その劇団がどんな芝居をするか・したか」の記述は~
必要かもしれませんし。必要じゃないかもしれませんし。ひょっとしたらwikiaで運用されたほうが適切かもしれません。(執筆者同士のぶつかり合いのなか第三者でも意見を出してくださっている皆さん。ありがとう)
6. 情報をオープンソースだと見て、権利を放棄させるのは、ある種の宗教的行為です。
あ。何も言えないや。これ。 ほんとオープンコーラとか。どんだけコーラ好きなんでしょうかね。
7. 原稿料が~検閲が~規則が~警告が~赤札が~創作が~
二次資料が~自費出版が~プロジェクトが~指摘が~協調性が~二次資料が~(それでも楽しんで活動されている皆さん。ありがとう。おかげで私も楽しめています)
8. めんどいことは芝居だけで充分や。勘弁して欲しい。
わかります。私もめんどいことは、システム設計と御用聞きだけで十分です。 (いろいろ間違った時に、ココ違うよ。これ読んでね。って教えてくださる皆さん。ありがとう)
9. もうこれ以上、システムはいらないね。人間関係が希薄に成るだけだ。これは、演劇にそぐわないね。
そうですね。システムは人間味がありませんが。ルールは、人間味が増しますね。 でなければスポーツマンの方々が可哀想です。 (演劇や演説の舞台にしないと方針定めた先人の皆さん。よりよいルールにしようと方針を議論されている皆さん。ありがとう)
……自分のも長くなったなぁ。--秋月 智絵沙(Chiether) 2010年7月9日 (金) 10:01 (UTC)[返信]