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このウィキでページ「新宿乱れ街 いくまで待って」は見つかりませんでした。以下の検索結果も参照してください。
- 荒井晴彦 (カテゴリ 外部リンクがリンク切れになっている記事/2014年7月)『この国の空』で第67回読売文学賞戯曲・シナリオ賞を受賞 2024年 『花腐し』で第33回日本映画プロフェッショナル大賞・監督賞を受賞 特記の無い物は脚本担当。 新宿乱れ街 いくまで待って(1977年) 不連続殺人事件(1977年)- 脚本・演出助手 トルコ110番 悶絶くらげ(1978年) 神様のくれた赤ん坊(1978年)…13キロバイト (1,538 語) - 2024年5月30日 (木) 21:06
- 曽根中生 (カテゴリ 外部リンクがリンク切れになっている記事/2020年12月)(1976年) 嗚呼!!花の応援団 役者やのォー (1976年) 不連続殺人事件 (1977年) 嗚呼!!花の応援団 男涙の親衛隊 (1977年) 新宿乱れ街 いくまで待って (1977年) 性愛占星術 SEX味くらべ (1978年) 教師 女鹿 (1978年) 女高生 天使のはらわた (1978年) 博多っ子純情…9キロバイト (1,169 語) - 2023年11月23日 (木) 19:33
- 古賀良美 役 ギミア・ぶれいく(1989年、TBS) - 「たけしの使えることわざ」「たけしの使えるオカマ語」「たけしの使えるお年寄り語」「たけしの使えるゴルフ語」司会 「市井」より 本番 (1977年、日活) 肉体の門(1977年) - 小政のせん 新宿乱れ街 いくまで待って (1977年、日活) 昼下りの情事…19キロバイト (2,299 語) - 2024年2月13日 (火) 02:41
- 役者やのォー(1976年、日活) - 柏原リーダー長 嗚呼!!花の応援団 男涙の親衛隊(1977年、日活) - 小川統制部長 八甲田山(1977年) - 渡辺伍長 新宿乱れ街 いくまで待って(1977年、日活) - 正平 詩雨おばさん(1977年) - 工員の男 襲え!(1978年、にっかつ) - 金井竜一 (秘)肉体調教師(1978年、にっかつ)…14キロバイト (1,640 語) - 2023年11月16日 (木) 23:29
- 曾根中生監督『新宿乱れ街――いくまで待って』 - 新宿ゴールデン街を舞台としている。 広崎哲也監督『さらばゴールデン街』 - 新宿ゴールデン街を舞台としている。 大上典保監督『NAGASHI――その名はマレンコフ』 - 新宿ゴールデン街を舞台としている。 いまおかしんじ監督『つぐない――新宿ゴールデン街の女』…76キロバイト (8,986 語) - 2024年5月27日 (月) 14:53
- 「門前忍」名義で脚本 『谷ナオミ 縛る』 : 主演谷ナオミ、製作・配給新東宝興業、1977年公開 - 監督、58分の上映用プリントをNFCが所蔵 『新宿乱れ街 いくまで待って』 : 監督曾根中生、製作・配給日活、1977年公開 - 出演(カントク役)、81分の上映用プリントをNFCが所蔵 『絶品つぼ合わせ』 :…25キロバイト (3,324 語) - 2023年9月24日 (日) 01:21
- 新宿仮駅の開業に伴い、当時「西武線」もしくは「村山線」と呼ばれていた路線は「新宿線」と改称された。西武新宿駅は仮駅のまま営業を続け、新宿駅東口の民衆駅(現在のルミネエスト新宿)の具体化を待っていた。 元々、当駅の周辺は角筈と呼ばれた地域だった。当駅の場所には都営バスの新宿車庫があった。西武新宿駅(角筈)…52キロバイト (6,729 語) - 2024年4月10日 (水) 04:36
- 野蛮人のネクタイ(1969年) キャロル(1974年) 炎の肖像(1974年) 不連続殺人事件(1977年) 実録不良少女 姦(1977年) 新宿乱れ街 いくまで待って(1977年) 最も危険な遊戯(1978年) エロチックな関係(1978年) 桃尻娘 ピンク・ヒップ・ガール(1978年) 餌食(1979年)…52キロバイト (6,735 語) - 2024年5月25日 (土) 14:12
- め、ホームが東北新幹線側にカーブしている。それでも、東京駅のホーム容量が不足する状態となったときは、上越新幹線を大宮駅から新宿駅へ分岐させる構想としていた。しかし、ダイヤの乱れが相互に波及し運転管理面に多くの問題が予想されること、周波数が、東海道・山陽新幹線:60 Hz・東北・上越新幹線:50…240キロバイト (35,546 語) - 2024年6月2日 (日) 20:06
- 東のエデン (カテゴリ 外部リンクがリンク切れになっている記事/2022年4月)に帰国した。滝沢に対し「私の王子様」ではないかと当初から好意を寄せており、行動を共にすることで次第に想いを深めていく。 ワシントンD.C.でのトラブルとミサイル事件による航空ダイヤの乱れが重なったせいで内定者面談を欠席してしまい、後日面談に行った際に食堂で牛丼をぶっかけられるという嫌がらせをされた…146キロバイト (23,465 語) - 2024年5月2日 (木) 05:05
- ひと夏の経験(1977年9月3日)監督:近藤幸彦、主演:八城夏子 若妻日記 悶える(1977年9月17日)監督:林功、主演:梓よう子 新宿乱れ街 いくまで待って(1977年9月17日)監督:曾根中生、主演:山口美也子 エロス学園 感度ばつぐん(1977年10月1日)監督:蔵原惟二、主演:小川亜佐美…81キロバイト (12,861 語) - 2024年5月4日 (土) 03:38
- が、私の死は決して不幸ではありません…」とペンで走り書きした文面は判読しがたいほどに文字が乱れ、混濁した意識の中でかろうじて書き進めたことがうかがわれた。この遺書とは別に、ムーランルージュ新宿座で芳子が使っていた化粧前から走り書きが見つかった。松坂屋の包装紙にしたためられたその内容は「永らえば恥多し…40キロバイト (6,101 語) - 2024年1月20日 (土) 21:13
- 街を盛り上げた。『南極物語』の大ヒットは、製作・宣伝面で、映画界にいくつかの新しい血を導入した。フジテレビの番組に俳優や犬が次々と出演、バラエティ番組で連日取り上げるなど大々的なキャンペーンが行われ、映画公開を一大イベント化した。フジサンケイグループを前面に押し出し、同系列資本が一丸となって…145キロバイト (21,351 語) - 2024年6月2日 (日) 14:40
- ドリフ大爆笑 (カテゴリ 内容が過剰となっている記事)って待ってますから!」と言い残して走り去っていく。 寝台車 いかりやが寝台列車に乗り込み、指定された寝台のカーテンを開けるとそこには位牌を抱え白目を剥いた医者(高木)が横たわっている。唖然とするいかりやに高木が一言、「これ寝台車だから、死んだ医者!なんちゃって」。…444キロバイト (63,031 語) - 2024年5月27日 (月) 19:22
- 三島事件 (カテゴリ 新宿区の歴史)た。警察と自衛隊との相違を明確化するため、政府(防衛庁)はこのチャンスにあえて自衛隊を治安出動すべきであると考えていた三島にとって、失望感と憤慨は大きかった。三島は新宿の街を歩きながら、「だめだよ、これでは。まったくだめだよ」と独り言を繰り返し、自暴自棄になったように「だめだよ、これでは」と叫んだという。…288キロバイト (47,915 語) - 2024年4月29日 (月) 05:47
- 明治天皇 (カテゴリ 内容が過剰となっている記事)待って閣議で十分な議論を尽くし、その上で朕に報告せよ、という聖断を三条に与えている。三条は使節派遣を閣議決定しながらも揺れ動いており、岩倉が早期帰国して意見を述べてくれることに期待していたから、この聖断に胸をなでおろして東京へ帰り、西郷に天皇の勅命を伝えた。岩倉の帰国を待…742キロバイト (129,409 語) - 2024年5月24日 (金) 10:13
- (1971年11月8日) 「映画街」『シナリオ』1973年4月号、日本シナリオ作家協会、86頁。 「東映・岡田茂会長インタビュー 『儂に残された仕事はこれなんだよ』」『映画時報』1994年7月号、映画時報社、27頁。 朝日新聞「ウイークエンド経済」編集部 編「時代の流れについていく感覚とは義理と人情東映会長岡田茂」『私の「経営」説法…147キロバイト (19,045 語) - 2024年5月31日 (金) 12:12
- イチロー (カテゴリ 外部リンクがリンク切れになっている記事/2020年7月)までも変えてしまった。今まで見たこともない打者だよ」と語り、MLBの歴史まで変えた存在としてイチローを評価した。 2011年に殿堂入りしたロベルト・アロマーは「私は、イチローがいつか殿堂入りするのをここで待っているよ。彼の数字を見れば一目瞭然だろう。何本のヒットを打っているの? 2400本は打っているよね?…393キロバイト (45,807 語) - 2024年6月3日 (月) 02:35
- 千と千尋の神隠し (企画書脱稿までの経緯の節)街を抜けると大きな灯籠のある広場に出、そこから延びる橋が湯屋の正面入り口に繋がる。食堂街の周囲には、両親の収容されている畜舎や冷凍室、花園などが配置されている(花園では季節の異なる花々が同時に咲き乱れている)。湯屋の方から見ると、畜舎は突き出た絶壁の上に建って…231キロバイト (32,771 語) - 2024年5月21日 (火) 07:09
- 子供等は足の遅い節子を途中で待受けるようにしては復(ま)た先へ急いで行った。節子はこうした日の来たことを夢のように思うという風で、叔父と一緒に黙し勝ちに清正公(せいしょうこう)前(まえ)の停留場まで歩いた。 三十三 新宿まで電車で行って、それからまた岸本は子供等や節子と一緒に大久保の方角を指(さ)して歩いた。