館岡栗山

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館岡 栗山(たておか りつざん、1897年9月9日 - 1978年10月16日)は、日本画家である。院展の無鑑査となり、俳句短歌にも親しんで、地域新聞の発行も続けた。

経歴[編集]

秋田県馬川村高崎(後の秋田県五城目町高崎)の生まれ。本名は豊治。小学校を卒業後、1911年秋田師範学校講習科に進学したものの肋膜炎のため1年で中退、以後独学で絵を描き続け、五城目町の落合病院で事務員として就職してからも折りをみては季節の風物をスケッチしていた。

1919年、22歳のときに家出同然に上京し、絵の修行をしようとしたものの、病を得て半年ほどで帰郷。健康を回復して25歳のときに改めて上京、アルバイトをして生活費を稼ぎながら絵の修行に励んだ。その頃、画号を長春から栗山に改めた。郷里の五城目町のシンボル的な里山である森山が、栗のような形にも見えたのが号の由来。栗山は郷里秋田への思い入れが強く、のちには秋田の風物が主要な題材となった。1925年1月からは48回にわたって秋田の県内紙秋田魁新報に「秋田百景」を連載している。

1926年、日本画の世界でさらに研鑽を積むため京都に移り住んだ。1928年日本美術院近藤浩一路に師事し、1933年、36歳で「台温泉」という作品で院展に初入選を果たした。1936年に近藤浩一路は日本美術院を脱退するが、栗山は師と行動を共にせず、美術院研究会員となって院展に出品を続け、入選を繰り返した。

翌年の研究会展作品『雨後』が大観賞を獲得、それを契機に安田靫彦に師事、昭和14年には院友に推された。院展には初入選以来連続入選30回を数え、1968年には特待・無鑑査となった。

1945年4月に48歳で京都から郷里五城目町に疎開、翌年には隣町である一日市町(後の八郎潟町)に移り住む。ここにアトリエを構え、秋田の風景や行事、伝承芸能などを好んで描いた。地方色豊かなマニエリスム風の微細な描写が作風。

俳句や短歌にも親しみ、若いころには同郷の俳人北嶋南五草皆五沼などとも親交があった。大正期には俳誌『山彦』を主宰している。五城目町の雀館公園には栗山の句碑がある。短歌では同郷の歌人中村徳也とともに学び、夫人とともに短歌会「歌瀬歌会」をつくっている。

1951年には地域新聞「湖畔時報」を創刊し社主になった。日本画研究グループ「新樹社」を1958年に設立、秋田の代表的展覧会である「県展」の審査員も務めた。1962年に秋田県文化功労者、1970年に勲五等双光旭日章を受章。著書に『銀婚』、『栗山画談』がある。

参考資料[編集]