青田顕治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
青田顕治
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 永禄6年(1563年
別名 胤清、胤治、太郎右衛門
官位 信濃守
主君 相馬顕胤盛胤
氏族 青田氏
父母 青田常久
兄弟 常義顕治
胤治
テンプレートを表示

青田 顕治(あおた あきはる)は、戦国時代武将相馬氏の家臣。陸奥国黒木城代。

略歴[編集]

大永5年(1525年)、白戸館の戦いで兄の常義が戦死したため家督を継いだ。

天文12年(1543年)、黒木氏一族を誅殺するも木幡盛清と対立し、主君の盛胤に讒言したのちに草野直清と結んで謀反を起こした。

永禄6年(1563年)には伊達晴宗に呼応して再び直清と謀反を起こした。盛胤は直ちに出陣し黒木城を攻撃。これに耐えきれず戦死したとも、田村清顕のもとに次男の胤治と共に落ち延びたともされる[1]

脚注[編集]

  1. ^ 戦国人名辞典[要文献特定詳細情報]