身池対論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

身池対論(しんちたいろん)とは、寺領国主供養仁恩であるかについて、受布施を主張する身延久遠寺日暹と不受不施を主張する池上本門寺日樹との対論で、幕府が両者を江戸城で対決させた論争をいう[1][2]

概要[編集]

1630年3月25日(寛永7年2月12日)受布施派は寺領は国主の供養であると主張し、不受不施派は寺領は供養の施と仁恩の施があり、供養一途には解すべきでないと主張した。1630年5月13日(寛永7年4月2日)幕府は対論を裁決し、徳川家康不受不施派を禁止した裁きに違背した罪として、不受不施派を敗者とする結論を下した。池上本門寺日樹は信州伊那に流罪、中山法華経寺日賢は遠州横須賀に流罪、平賀本土寺日弘は伊豆戸田に流罪、小西檀林日領は佐渡のち奥州中村に流罪、碑文谷法華寺日進は信州上田に流罪、中村檀林日充は奥州岩城平に流罪、となった。また、不受不施派の首謀者として大きな影響を与えた日奥は、裁決直前、1630年4月22日(寛永7年3月10日)66歳で京都妙覚寺に没したが、死後に関わらず再度、対馬に流罪となった。更に幕府は不受不施派の拠点である池上本門寺日遠に、京都妙覚寺日乾に与えた。身延久遠寺はこれを好機として飯高檀林中村檀林小西檀林の三檀林を接収し、中山法華経寺小湊誕生寺の不受不施派の拠点をも支配下に収めた。

関係者[編集]

判者[編集]

奉行[編集]

不受不施派[編集]

受布施派[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 身池対論記録(本覚寺蔵)
  2. ^ 謗供受不受論記(国立国会図書館蔵)

関連項目[編集]