越智雲夢

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越智雲夢
時代 江戸時代中期
生誕 貞享3年(1686年)1月
死没 延享3年(1746年3月25日
改名 亀次郎(幼名)→正珪
別名 字:君瑞、号:懐仙楼、神門叟、雪翁、松月館、雨花庵
墓所 麻布仙台坂上天真寺
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗
氏族 曲直瀬氏越智氏
父母 父:曲直瀬正璆、母:柘植氏
村井氏娘
正白、正山
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越智 雲夢(おち うんぼう)は、江戸時代中期の儒学者・医者。江戸幕府典医養安院曲直瀬氏5代目。諱は正珪(まさあきら[1])。幼名は亀次郎[1]。字は君瑞。本姓は越智氏。別号に懐仙楼、神門叟等。

幕府に医術を以って仕える傍ら、荻生徂徠古文辞学を学び、服部南郭本多忠統等と交流して詩文に興じた。

号について[編集]

初代曲直瀬正琳伊予国河津氏庶流一柳氏出身であったため、その本姓越智氏を称した。雲夢の号は、古代にあったとされる仙境雲夢沢中国語版による[2]

懐仙楼の号は友人の提案によるものである。ある日、普段のように雲夢邸で友人等が思い思いに過ごしていたところ、雲夢が階上の書斎の号を募集した。ある人が「仙人は楼居す」の故事に基づき「懐仙」を提案した。雲夢は「こんな狭い所に仙人も寄り付くまい」と答えたが、その時たまたま小鳥が飛来したので、西王母の使いだという話になり、「懐仙」の号が採用されたという[3]

神門叟の号は、曲直瀬氏代々の屋敷が神田橋門外(千代田区内神田一丁目)に与えられていたことによる。その他の号に雪翁、松月館、雨花庵がある[1]

経歴[編集]

貞享3年(1686年)1月に生まれた[4]正徳頃から服部南郭等と交遊し、荻生徂徠学中に初期から参加した[5]

医業においては、享保9年(1724年)に家督を継ぎ、享保15年(1730年)法眼となった後、寛保3年(1743年)病のため致仕した[4]延享3年(1746年)3月25日死去し、代々の墓所、麻布仙台坂上天真寺に葬られた[4]

人物[編集]

温厚な性格で、家人を叱ることがなく、弟子は常々「主人について見ないものが3つある。慍顔、詰語、鄙吝である。」と語っていた[6]。また、神田門外の代々の屋敷においては、父に倣い、江戸城のある西方に足を向けて寝ることを決してしなかった[6]

蔵書家として知られ、正琳以来の蔵書は神門文庫と称された。また、中国絵画も蒐集し、本多忠統と古画の交換を行っているほか、享保2年(1717年)2月には自邸に狩野派の画家を招いて古画の展覧会を催している[7]。また、琴を嗜んだ。

系譜[編集]

  • 父:曲直瀬正璆 - 曲直瀬家4代目。
  • 母:柘植氏[6]
  • 妻:村井氏[4]
    • 長男:正白 - 字は長庚。夭逝[4]
    • 次男:正山 - 曲直瀬家六代目。幼名は亀太郎、又五郎。字は叔岳。別号は逃禅[1]

著作[編集]

『懐仙楼集』10巻5冊
服部南郭「懐仙楼集序」、本多忠統「越君瑞文集序」が寄せられる。生前に成立し、死後嫡男越智正山が校訂し、寛政12年(1800年)「懐仙楼集跋」を附して出版された[8]
『懐仙楼雑記』7冊
享保20年(1735年)
『神門余筆』
先哲叢談』に見える。
『赤城遊記』
『徂徠集』所載詩の徂徠自注において、雲夢が本書を見せに徂徠邸を訪れたことが記されている[9]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 町(2009) p.26
  2. ^ 中田(1985) p.20
  3. ^ 服部南郭「懐仙閣記」中田(1985) p.24,25
  4. ^ a b c d e 服部南郭撰「故法眼雲夢越公墓碑」中田(1985) p.3,4
  5. ^ 中田(1985) p.5
  6. ^ a b c 東条琴台先哲叢談』後編 中田(1985) p.6,7
  7. ^ 杉本(2014) p.68,69
  8. ^ 中田(1985) p.13
  9. ^ 中田(1985) p.21

参考文献[編集]

  • 杉本欣久「八代将軍・徳川吉宗の時代における中国絵画受容と徂徠学派の絵画観 ―徳川吉宗・荻生徂徠・本田忠統・服部南郭にみる文化潮流―」『黒川古文化研究所紀要 古文化研究』第13号、2014年
  • 中田勇次郎「本田猗蘭侯と越智雲夢」『大手前女子大学論集』第19集、1985年
  • 町泉寿郎「曲直瀬養安院家と朝鮮本医書」『日本思想文化研究』第2巻第1号、2009年