角田無幻

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角田 無幻(つのだ むげん、寛保3年(1743年4月15日 - 文化6年(1809年7月23日[1])は、江戸時代書道家。諱は光劉(こうりゅう)後に光旒(こうりゅう)、字は公冕(こうべん)、院号は仙教院(せんきょういん)、後に知足院(ちそくいん)、号を無幻または無源[2]。伝法大阿闍梨法印に叙せられた。上毛の三筆といわれた。

人物[編集]

角田夢幻は寛保3年(1743年)、下野田村(現吉岡町)の華蔵寺に狩野亮観の第二子として生まれた[1]

宝暦8年(1758年)に勢多郡津久田村の林徳寺、角田広観の法嗣(養子)になっている[1]

天明2年(1782年)大般若講義を命ぜられて京都に上り、住心院僧正に拝謁して修験道の興隆を図るには学校を設け、修験者の再教育と弟子の育成が急務であると奏上した[2]

寛政4年(1792年)林徳寺の寺職を祐観に譲る[1]

寛政8年(1796年聖護院法親王の侍講、華王院仏猊の招聘を受け再度京都に上り、大善院の住職となる[1]

寛政12年(1800年)には、三井寺灌頂を受け伝法大阿闍梨法印に叙せられている[1]

光格天皇に自筆の「千字文」を奉呈したほか、当時皇太子だった仁孝天皇にも自筆の書を奉った[1]

文化6年(1809年)京都で没し真如堂に葬られた[3]が、上州の弟子たちが遺髪と爪を持ち帰り、夢幻道人建立の寂照山という寺の跡に遺髪塚を建てた。

  • 修験僧だったが、書を志す
  • 沢田東江に指導をうけ、第一人者となる
  • 京都の書を研究
  • 庚申塚や神社の鳥居、道祖神などを多く残している

没後の文化11年(1814年)に祐観によって津久田村に石碑が建てられた[3]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g 群馬県群馬郡教育会 編『群馬県群馬郡誌』群馬県群馬郡教育会、1925年、1501-1504頁。 
  2. ^ a b 井田金次郎 編『上毛書家列伝(下)』みやま文庫、1984年、52-72頁。 
  3. ^ a b 勢多郡誌編纂委員会『勢多郡誌』勢多郡誌編纂委員会、1958年、937-940頁。 

関連書籍[編集]

  • 「修験者 無幻道人 ~後世に伝える金石文~」渋川市教育委員会

関連項目[編集]