親衛隊名誉リング

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親衛隊名誉リング

親衛隊名誉リング(しんえいたいめいよリング、SS-Ehrenring)は、ナチス党親衛隊(SS)の古参隊員に授与されていた指輪。髑髏をかたどった指輪であったので「髑髏リング(Totenkopfring)」と俗称される。

概要[編集]

古参隊員を顕彰するために親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーにより1934年4月10日に制定された[1][2]。古参隊員5000人を対象に授与されたが、1939年8月からは基準が緩められ、一定の条件(政権獲得の1933年以前に入隊した将校や階級に関わりなく親衛隊登録番号10000番以下のもの等)を満たしている親衛隊員であれば授与されるようになった[2][3]。最終的には1万4500個ほどの授与が行われたと見られている[4][3]。授与に際しては勲記とともに渡された[2][1]

この指輪の所持は親衛隊では最も高いステータスの一つだった[2][1]が、ナチ党の公認を受けているわけではなく、あくまで親衛隊独自のものであった。

指輪は左手薬指にはめることを定められていた[1]。名誉を重んじるものであるため、犯罪歴や懲戒歴のない者だけが対象であった。授与後に犯罪を犯したり懲戒を受けた者などは指輪を親衛隊人事本部に返却しなければならなかった。また親衛隊から離れた場合や死亡した場合も返却が求められた。死亡の場合には勲記は家族が形見として受け取ることを認められていた。しかし懲罰を受けた場合などは勲記も返さねばならなかった[1][2]。また着用資格のない者へ指輪を貸与したり、指輪を複製することは法律で禁止されており、違反した場合は罰せられた[1][3]

指輪の持ち主が死ぬか親衛隊を離れた場合、指輪はヒムラーの元に戻され、持ち主を記念するために親衛隊の聖地ヴェーヴェルスブルク城(Wewelsburg)の「トーテンコプフ・リングの所有者たちの神殿」(Schrein des Inhabers des Totenkopfringes)に収められ永久保存されることになっていた[4]。また持ち主が戦死した場合、親衛隊の同志は全力を尽くしてその指輪を回収し、敵の手に渡らないようにしなければならないとされた。回収した後は上官に渡し、その上官が親衛隊人事本部に返却した[4][2]

指輪をデザインしたのは「ヒムラーのラスプーチン」と呼ばれるカール・マリア・ヴィリグートである[2]。指輪の外側には髑髏に柏葉とルーン文字が、指輪の内側には「Seinem lieben(親愛なる)授与者の氏名 授与日 H.Himmler(H.ヒムラー)」という文字が刻まれていた[3]

指輪は、戦況の悪化のため1944年10月7日を最後に生産中止となった。指輪授与が中止されると、ヒムラーは残った指輪すべてをヴェーヴェルスブルク城の近くの山に埋めさせたが、その位置は現在不明になっている。1945年1月の時点で、生産された14,500個の指輪のうち64%がヒムラーの元に戻っている[4]。また戦後、多数の指輪がヒムラーの指示通り、持ち主とともに埋葬された。終戦まで残った指輪の数は3,500個ほどと考えられており[4]、非常に少ないためコレクターの間では希少品とされている。一方で多数の模造品や贋作も市場に出回っている。

参考文献[編集]

  • ロビン・ラムスデン(en) 著、知野龍太 訳『ナチス親衛隊軍装ハンドブック』原書房、1997年。ISBN 978-4562029297 
  • 山下英一郎『制服の帝国 ナチスSSの組織と軍装彩流社、2010年。ISBN 978-4779114977 
  • 『武装SS全史I』学研〈欧州戦史シリーズVol.17〉、2001年。ISBN 978-4056026429 

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f ラムスデン、87頁
  2. ^ a b c d e f g 山下、313頁
  3. ^ a b c d 学研、84頁
  4. ^ a b c d e ラムスデン、88頁

関連項目[編集]