裴之平

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裴之平(はい しへい、生年不詳 - 566年)は、南朝梁からにかけての人物。は如原。本貫河東郡聞喜県

経歴[編集]

梁の中散大夫の裴髦(裴邃の兄)の五男として生まれた。召されて文徳主帥に任じられた。普通6年(525年)、梁が北伐の軍を起こすと、之平は都督の夏侯亶の下で従軍し、戦功により費県侯に封じられた。衡州で紛乱が起こると、之平は仮節・超武将軍・都督衡州五郡征討諸軍事となり、その鎮圧にあたった。元帝承聖年間、散騎常侍・右衛将軍・晋陵郡太守を歴任した。陳の文帝が即位すると、光禄大夫の位を受け、慈訓宮衛尉に任じられたが、就任しなかった。人工の山を築き、池を掘って、花や木を植え、そのあいだに庵を結んで隠遁の生活を営んだ。天康元年(566年)、死去した。仁威将軍・光禄大夫の位を追贈された。は僖子といった。

子に裴忌があった。

伝記資料[編集]