蘇茂

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蘇 茂(そ ぼう、? - 29年)は、中国代から後漢時代初期の武将。兗州陳留郡の人。

事跡[編集]

姓名 蘇茂
時代 代 - 後漢時代
生没年 生年不詳 - 29年建武5年)
字・別号 〔不詳〕
本貫・出身地等 兗州陳留郡
職官 討難将軍〔更始〕→大司馬〔劉永〕 
爵位・号等 淮陽王〔劉永〕
陣営・所属等 更始帝光武帝劉永

劉紆張歩

家族・一族 〔不詳〕

更始政権での事跡[編集]

最初は更始帝に仕え、後に一時は光武帝に仕えたが、まもなく劉永配下となった。『後漢書』では伝は立てられていないが、優れた軍事能力を持った武将である。

更始帝の下では討難将軍として仕え、更始3年(25年)1月に劉嬰(孺子嬰)・方望・弓林らが臨涇(安定郡)で挙兵すると、蘇茂は丞相李松と共にこれを鎮圧した。その後、洛陽を守備する左大司馬朱鮪に帰属し、将軍の賈彊と共に温(河内郡)で劉秀の部将の馮異寇恂と交戦した。しかし、賈彊が戦死する大敗を喫し、蘇茂は洛陽へ退却している。同年9月、朱鮪が洛陽を開城して光武帝に降伏すると、蘇茂もこれに従った。

離反して劉永配下へ[編集]

建武2年(26年)4月、蘇茂は劉秀の部将の蓋延と共に梁王劉永の討伐に従軍した。しかし、蘇茂は蓋延との仲が悪く、ついに淮陽太守潘蹇を殺害して劉永に寝返っている。劉永は、蘇茂を大司馬に任命し、淮陽王に封じた。

同年8月、漢軍の討伐を受けて譙(沛郡)に逃げ込んだ劉永を救援するために、蘇茂は同僚の周建佼彊と共に駆けつけたが、漢軍の蓋延に敗北し、蘇茂は広楽城(梁郡虞県)へ退却する。翌建武3年(27年)4月、蘇茂は漢軍の大司馬呉漢の攻撃を受け、周建の救援を受けたものの敗北し、2人で湖陵(山陽郡)に退却した。このとき、漢軍に占領されていた劉永の旧本拠地睢陽(梁郡)が劉永に再び付いたため、周建と蘇茂は劉永を守って睢陽に移る。しかし、蓋延に包囲されて糧食が尽き、劉永・周建・蘇茂は脱出して酇(沛郡)へ逃れたが、劉永は部下に殺されてしまった。

周建と蘇茂は、劉永の子の劉紆を垂恵聚(沛郡山桑県)で梁王に擁立し、漢軍への抵抗を継続する。建武4年(28年)7月、漢軍の馬武王覇に垂恵聚を包囲され、周建・蘇茂はこれを迎撃したが敗北し、蘇茂は下邳郡へ逃れて董憲と合流した。建武5年(29年)3月、漢の将軍龐萌が反逆した際には、蘇茂は董憲・佼彊と共にこれを救援して桃城(東平郡任城県)を囲むなどの攻勢に出たが、光武帝軍の攻撃を受けて敗退している。

盟友に暗殺される[編集]

同年8月、劉紆も戦死したことから、蘇茂は斉王張歩を救援するために、その本拠地の劇(北海郡)へ向かった。ところが張歩は、蘇茂が到着する前に後漢の耿弇に攻撃を仕掛けて大敗し、さらに光武帝軍の進軍も受け、劇を放棄して平寿(北海郡)へ逃げ込む。駆けつけた蘇茂は、我を待つことが出来なかったのかと責め、張歩は恥じ入った。

そこへ光武帝は、蘇茂と張歩にそれぞれ使者を派遣し、相方を斬って降れば列侯に封じると告げた。すると、張歩は蘇茂を斬り、その首級を持って光武帝に降った。

蘇茂の実力[編集]

史書を読む限り、蘇茂は敗戦の記述が多いが、これは漢軍と劉永父子の軍との力量差を考えれば、止むを得ないところがある。なお、最終的には勝利したとはいえ、垂恵聚で蘇茂と対陣した漢の将軍王覇も、蘇茂の軍を精鋭と評価し、あわせて蘇茂の用兵に十分な警戒を払っている。

加えて、蘇茂は敗戦を重ねながらも自軍を再起不能の状態にはしておらず、劉永父子に味方する諸将を何度も救援しているところから見ても、その軍事的才能の確かさが窺えよう。

参考文献[編集]

  • 後漢書』列伝2 劉永伝、張歩伝
  • 同 本紀1上 光武帝紀上
  • 同 本紀1下 光武帝紀下
  • 同 列伝10 王覇伝

関連項目[編集]