蕭幾

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蕭 幾(しょう き、491年 - 没年不詳)は、南朝梁官僚文人は徳玄。

経歴[編集]

宗室の曲江公蕭遙欣の子として生まれた。永元元年(499年)に父が死去すると、蕭幾は幼い弟たち9人に恩愛をかけ、兄弟仲の良いことで当時の朝野に知られた。蕭幾は性格が温和であり、他人と物を競うことがなく、清貧で自立していた。10歳で文章を作ることができ、学問を好み、草書隷書を得意とした。湘州刺史楊公則は蕭遙欣の旧部下であったことから、蕭幾と会うたびに「康公(蕭遙欣の諡号)のこの子は、桓霊宝(桓玄)の再来と言うべきものだ」と評していた。

天監4年(505年)に楊公則が死去すると、蕭幾はかれを偲ぶ文章(誄)を作った。このとき蕭幾は15歳だったことから、沈約はその文章を見て珍しく思い、蕭幾の母の兄弟の蔡撙に対して「このあいだ賢甥の楊平南(平南将軍楊公則)を偲ぶ文章を見たところ、珍しく素晴らしい作品であって、康公の積善の報いが初めて現れたものであろう」と評した。

蕭幾は梁の宗族として著作佐郎を初任とし、廬陵王蕭続の下で文学をつとめた。入朝して尚書殿中郎となり、太子舎人に転じて、東宮の記録を管掌した。さらに太子庶子・中書侍郎・尚書左丞を歴任した。晩年は仏教に専心した。新安郡太守となり、その地の山水を愛して、歩き回っては記録に残した。在官のまま死去した。

子の蕭為は、字を元専といい、やはり文才のあることで知られ、太子舎人・永康県令に上った。

伝記資料[編集]