若江量長

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若江 量長
時代 江戸時代後期 - 幕末
生誕 文化9年12月13日1813年1月15日
死没 明治5年8月20日1872年9月22日
官位 従四位上諸陵頭
従四位
主君 仁孝天皇孝明天皇明治天皇
氏族 錦小路家若江家
父母 父:錦小路頼理
養父:若江公義
女子、薫子、女子
養子:範忠
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若江 量長(わかえ かずなが)は、江戸時代後期から幕末にかけての日本地下人伏見宮殿上人一条美子付学問師範となった若江薫子は次女である。

生涯[編集]

出自[編集]

元は医道を家業とする丹波宿禰氏嫡流の錦小路家の生まれで、量長は修理大夫頼理の三男[注 1]として、文化9年(1813年)に誕生した。

文政7年(1824年)、叙爵される。文政8年3月28日1825年5月15日)、14歳で元服し、院昇殿を許され、越後権介に任じられる。

諸陵頭[編集]

幕末、文久の修陵などにより、宮中に諸陵寮が再興されることとなった。そこでその長官である諸陵頭への競望を、摂家諸大夫、次に親王家諸大夫に尋ねたが誰も名乗りを上げなかった。これは元日から正月15日までや神事のときに朝廷出仕が停止させられる不便があり、また陵墓への穢所意識があったと考えられる[1][2]。そこで、二条斉敬が摂家らに相談した結果、常に勤仕することのない身分であった量長に宣下されることになった[3]

しかし、諸陵頭に就いたとはいえ、陵墓に関して多く知識を持っていたわけではなく、諸陵寮官人となった谷森善臣鈴鹿勝芸に任せていたという[注 2]

晩年[編集]

明治5年8月15日1872年9月17日)、平松時言の叔父[注 3]範忠を養子とした[4][注 4]。その5日後、61歳で卒去した。

量長の没後、範忠との不仲により、次女・薫子は家を追われてしまった。

官歴[編集]

系譜[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『系図纂要』第七冊、菅原氏上、p.83。「実修理大夫丹波頼理三男」とある。
  2. ^ 森鷗外『津下四郎左衛門』。芝葛盛による薫子の出自の記述に見える。
  3. ^ 時言からみて範忠は実弟だが、時言が養兄時保の養子となったため、叔父となった。
  4. ^ 『太上類典』第二編、「華族平松時言叔父範忠ヲ東京府士族若江量長ノ養子トス」では、8月7日9月9日)に養子となったようである。

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 正宗敦夫編『地下家伝』中、自治日報社、1968年。
  • 宝月圭吾・岩沢愿彦監修『系図纂要』第七冊、名著出版、1973年。
  • 国文学研究資料館史料館「史料館所蔵史料目録 第31集 京都・久世家 (同)平松家」第31巻、1980年3月25日、doi:10.24619/00003206 
  • 外池昇陵墓観の変遷」『成城文芸』第115号、成城大学文芸学部、1986年5月、41-64頁、ISSN 02865718NAID 110000245704 
  • 武田秀章明治諸陵寮設置の一考察」『明治聖徳記念学会紀要』(PDF)復刊22、1997年、1-24頁http://meijiseitoku.org/pdf/f22-1.pdf