稲垣益穂

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稲垣 益穂(いながき ますほ、1858年安政5年) - 1935年昭和10年)[1][2]:41[注釈 1])は、明治から昭和初期にかけての教育者。

明治時代後期から昭和初期にかけて、北海道小樽市の稲穂尋常高等小学校(現在の小樽市立稲穂小学校)校長を務める。『稲垣益穂日誌』は当時の小樽を知る資料として貴重である。

生涯[編集]

1858年(安政5年)、土佐国長岡郡西野地村(現在の高知県南国市)に生まれる[1]。高知県で小学校補助教諭となって教育界に入り、1892年(明治25年)には校長に任命される[1]。以後、岩手県、宮城県に転任した。

1903年(明治36年)、小樽区稲穂尋常高等小学校(現在の小樽市立稲穂小学校)校長に着任。以後、小樽に暮らした[1]。1920年(大正9年)、小樽盲唖学校[注釈 2]嘱託。1921年(大正10年)には庁立小樽商業学校(現在の北海道小樽商業高等学校)嘱託となる[1]

稲垣益穂日誌[編集]

稲垣益穂日誌』は、高知県で務めていた[5]1896年(明治29年)1月1日から、亡くなる直前の1935年(昭和10年)1月27日まで、ほぼ毎日記された稲垣の日記(全55冊)[1]。稲垣が得意であった絵も交えている[5]

明治後期から昭和初期、小樽が最盛期を迎えていた時期の街の姿を継続的にとらえた資料として貴重である[2]:41[注釈 3]。物価や世相、新しい文化の到来・受容・普及[注釈 4]などが描かれる。また、盲唖学校の校長を務めたことから、大正期の視覚障害児聴覚障害児に対する教育[注釈 5]のありようも記されている[1][2]:42

小樽市総合博物館の歴史ボランティア・職員により翻刻・編集が行われ、同館が刊行している[1]。刊行は1987年に第8巻(小樽に赴任した1903年の分)が出版されたのが最初で、以来不定期におこなわれており[5]、2017年までに27冊(高知県時代の2冊(初巻・第1巻)および第8巻以降[5])が発行されている[1]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 2016年頃までの記述には、没年・日誌の終期を1941年(昭和16年)とするものがある[3]
  2. ^ 1906年、小林運平により私立学校として設立、1948年に道に移管され北海道小樽聾学校[4]。2014年(平成26年)閉校[2]:41
  3. ^ ほかに小樽の社会を知る日記として、明治初期に鵙目貫一郎(1840年 - 1877年)が記したものがある[2]:41
  4. ^ 洋装[6]、カレーライス[6][7]、運動会[8]や野球[6]など
  5. ^ 今日でいう特別支援教育。当時の日本の状況については「盲学校#日本」、「ろう教育#日本のろう教育の歴史と現状」も参照。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i 小樽の日常を記録!「稲垣益穂日誌」第32巻刊行”. 小樽ジャーナル (2017年4月10日). 2020年2月7日閲覧。
  2. ^ a b c d e 小樽市歴史文化基本構想(素案)” (pdf). 小樽市. 2020年2月7日閲覧。
  3. ^ 大正時代の小樽の物価は?金融資料館特別展”. 小樽ジャーナル (2016年10月19日). 2020年2月7日閲覧。
  4. ^ 聾学校記念碑建立 除幕式で祝う”. 小樽ジャーナル (2017年6月4日). 2020年2月7日閲覧。
  5. ^ a b c d 稲垣日誌"第31巻"70部 博物館友の会寄贈”. 小樽ジャーナル (2015年7月6日). 2020年2月7日閲覧。
  6. ^ a b c 「稲垣日誌」と写真で明治の雪景色を紹介”. 小樽ジャーナル (2009年2月14日). 2020年2月7日閲覧。
  7. ^ 山城栄太郎 (2017年3月28日). “「カレー」をキーワードに小樽を巡る”. おたるぽーたる. 小樽観光協会. 2020年2月7日閲覧。
  8. ^ 並川梓 (2011年2月14日). “祝祭としての運動会 小樽の都市民俗学”. 関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室. 2020年2月7日閲覧。