碩翁科羅巴遜敗哈達兵

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『滿洲實錄』巻1「碩翁科羅巴遜敗哈達兵」アンバ・フィヤング (左中の右) とバスン (左中の左)
戦闘地点 フジ・ガシャン (比定地不詳)
戦闘時期 万暦10 (1582) 旧暦8月
戦闘国
統帥者
  • リダイ
死傷者数 40名 不詳
戦闘結果 敗北 戦捷
『滿洲實錄』巻1「祖宥養理岱」城 (右上) の前で跪くリダイ (右下) と、ヌルハチ (左中)
戦闘地点 遼寧省撫順市新賓満族自治県
戦闘時期 万暦12 (1584) 年旧暦正月
戦闘国
  • ジョーギヤ
  • マンジュ
統帥者
  • リダイ
  • ヌルハチ
  • アンバ・フィヤング
死傷者数 不詳 不詳
戦闘結果 敗北 戦捷

碩翁科羅巴遜敗哈達兵[1](フジ・ガシャン[2]の戦)は、ハダ・グルン及びジョーギヤ城主・リダイと、建州部酋長・ヌルハチとの間の戦闘。

本記事では、フジ・ガシャン戦の後にヌルハチがジョーギヤ・ホトンを陥落させた戦闘 (ジョーギヤ・ホトンの戦) についても扱う。

概要[編集]

ヌルハチの大叔父・ボーシ[3]に、カンギヤ[4]、チョキタ[5]、ギュシャン[6]という子がいた。三人はヌルハチの英武を妬み、その討伐を計画した。

哈達来襲[編集]

万暦10 (1582) 旧暦8月、[7]三人はフルン (海西女真) のハダ・グルンに出兵を要請し、フネヘ・アイマン[8]のジョーギヤ[9][10]城主・リダイ[11](ヌルハチの宗族) の先導の下、ヌルハチ属領のフジ・ガシャン[2]を劫奪させた。[12]劫奪から撤収し、それぞれの城へ帰還する途中、一行は戦利品の俘虜や家畜の分配を始めた。それに気づいたアンバ・フィヤング (ションコロ・バトゥル) は、バスン[13]とともに12人の騎兵を率いて追撃した。戦利品の分配に夢中であったハダ兵らは、突然現れたアンバ・フィヤングらを前に狼狽し、各々遁走を始めた。アンバ・フィヤングらは40人を殺害し、掠奪された人馬を全て奪回して帰還した。

討伐理岱[編集]

万暦12 (1584) 年旧暦正月、ヌルハチアンバ・フィヤングらを率いてジョーギヤ・ホトン[9](現遼寧省撫順市新賓満族自治県下営子趙家村附近)[10]に向け出兵した。途中、大雪に見舞われ、ガハ・ダバガン[14]の険しい山道で進退両難の状況に陥った。ヌルハチの叔父や弟らは進軍を中止しようと進言したが、ヌルハチは、

理岱リダイ[11]は吾等が同じき姓の同胞ながら、吾等を殺さんと哈達ハダの兵を道示して伴れ來たりし。[15]

と言って斥け、一行は山道を削って階段を彫り、縄で馬を繋ぎ、魚貫[16]して峠を踰えた。

ヌルハチ一行がジョーギヤ城下に着くと、ヌルハチ伯父・ソーチャンガ[17]の子・ロンドン[18]がヌルハチの出撃を事前に城主・リダイに通知していた為、リダイは兵を集めてヌルハチの到来を待ち構えていた。この時、ヌルハチ一行からは、敵軍の万全の準備を心配して退却を勧める者が現れたが、ヌルハチは、百も承知だとこれを斥け、城を包囲させた。ヌルハチ軍はジョーギヤ・ホトンをそのまま陥落させると、城主・リダイを捕え、誅殺を免じて連れ帰った。

この時、リダイの徒党の一人である李古里扎泰不詳が汪泰不詳に帰順した。アンバ・フィヤングはヌルハチの指令を承けて、二人を降伏させた。[19]

余談[編集]

上記両戦ともに参加し活躍したアンバ・フィヤングは、リダイらが襲撃したフジ・ガシャン[2](比定地不詳) の出身。先祖代々同地に定住した。[20]

脚註[編集]

  1. ^ 「碩翁科羅巴遜敗哈達兵」というのは『滿洲實錄』巻1の挿絵の題名。満洲語では「šongkoro baturu basun hadai cooha be gidaha」(今西訳:碩翁科羅巴圖魯、巴遜哈達の兵を擊ち敗れり)。
  2. ^ a b c フジ・ガシャン, hūji gašan, 瑚濟寨。*ガシャンは郷村、屯の意。漢文では「寨」。
  3. ^ ボーシ, boosi, 寶實。ヌルハチ祖父・ギオチャンガの六弟。
  4. ^ カンギヤ, kanggiya, 康嘉。
  5. ^ チョキタ, cokita, 綽奇塔。
  6. ^ ギュシャン, giošan, 覺善。
  7. ^ “萬”. 清史稿. 223. 清史館. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷223#子扈爾干 
  8. ^ フネヘ・アイマン, hunehe aiman, 渾河部。
  9. ^ a b ジョーギヤ・ホトン, joogiya hoton, 兆嘉城 (滿洲實錄)/ 兆佳城 (清太祖高皇帝實錄)。*ホトンは城の意。
  10. ^ a b “ᠵᠣᠣᡤᡳᠶᠠ joogiya”. 满汉大辞典. 遼寧民族出版社. p. 876. http://hkuri.cneas.tohoku.ac.jp/p06/imageviewer/detail?dicId=72&imageFileName=876. "[名]〈地〉兆佳 (明代浑河部女真人的聚居地,今辽宁省新宾满族自治县下营子赵家村附近)。" 
  11. ^ a b リダイ, lidai, 理岱 (滿洲實錄)/ 李岱 (清太祖高皇帝實錄)。*ヌルハチとは宗族 (共通の父祖をもつ一族)。
  12. ^ 『滿洲實錄』巻1と『清史稿』巻225は「請哈達國兵」としているが、『清實錄』巻1では「糾合請哈達國萬汗兵」としている。また、『清史稿』巻223には「八月,扈爾干以兵從兆佳城長李岱劫太祖所屬瑚濟寨,太祖部將安費揚古、巴遜以十二人追擊,殺哈達兵四十人,還所掠。」とあり、カンギヤらが戦闘に参加したとは書かれていず、更に出兵したのは初代国主・ワンではなく二代目国主・フルガンとしている。
  13. ^ バスン, basun, 巴遜。
  14. ^ ガハ・ダバガン, gaha dabagan, 噶哈嶺。*ダバガンは嶺の意。音訳で達巴罕とも。
  15. ^ 満和蒙和対訳 満洲実録. 刀水書房 
  16. ^ “ぎょ-かん・・クヮン【魚貫】”. 精選版 日本国語大辞典. 小学館. https://kotobank.jp/word/魚貫-1070876. "〘名〙 魚を串にさしつらねたように、おおぜいの人が列をなしてつらなって行くこと。" 
  17. ^ ソーチャンガ, soocangga, 索長阿。ヌルハチ祖父・ギオチャンガの三子。
  18. ^ ロンドン, longdon, 龍敦。
  19. ^ “安費揚古”. 清史稿. 225. 清史館. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷225#安費揚古 
  20. ^ “安費揚古”. 清史稿. 225. 清史館. https://zh.wikisource.org/wiki/清史稿/卷225#安費揚古. "安費揚古,覺爾察氏,世居瑚濟寨。" 

参照[編集]

史籍[編集]

  • 編者不詳『滿洲實錄』巻1, 四庫全書, 1781 (漢文) *中央研究院歴史語言研究所版
  • 編者不詳『ᠮᠠᠨᠵᡠ ᡳ ᠶᠠᡵᡤᡳᠶᠠᠨ ᡴᠣᠣᠯᡳ (manju i yargiyan kooli:滿洲実録)』巻1、 四庫全書, 1781 (満文)
  • 編者不詳『清太祖高皇帝實錄』(漢文)
  • 趙爾巽, 他100余名『清史稿』巻225, 清史館, 1928 (漢文) *中華書局

研究書[編集]

  • 今西春秋『満和蒙和対訳 満洲実録』刀水書房, 1992 (和訳) *和訳自体は1938年に完成。
  • 安双成『满汉大辞典』遼寧民族出版社, 1993 (中国語)
  • 胡增益 (主編)『新满汉大词典』新疆人民出版社, 1994 (中国語)
  • 『五体清文鑑訳解』京都大学文学部内陸アジア研究所 (和訳)

Webサイト[編集]

  • 栗林均「モンゴル諸語と満洲文語の資料検索システム」東北大学
  • 「明實錄、朝鮮王朝実録、清實錄資料庫」中央研究院歴史語言研究所 (台湾)
  • 「人名權威 人物傳記資料庫」中央研究院歴史語言研究所 (台湾)