玉村方久斗
玉村 方久斗(たまむら ほくと、本名:善之助、1893年11月13日 - 1951年11月8日[1])は、大正から昭和初期に、日本画における前衛を追求したことで知られる日本画家[2][3]。別号に、連城、北斗がある[3]。本名の玉村善之助、またタマムラ・ゼンノスキーと名乗っての活動もあった[4]。
経歴
[編集]京都市(後の中京区)の下駄問屋の家に生まれる[2]。京都市立美術工芸学校から京都市立絵画専門学校(京都市立芸術大学の前身)に進んで菊池芳文に師事し、1915年に卒業した[2]。岡本神草、甲斐庄楠音、入江波光らと日本画研究団体「密栗会」を結成し、展覧会を開催するが、並行して院展にも出品し入選する[2]。
1916年に東京へ移り、院展を中心に活動し、1918年には「樗牛賞」を受賞したが、1919年を最後に院展を離れた[2]。日本美術院からの脱退は、横山大観との対立が原因であったとされている[4]。
以降、1921年には村雲殿一らと「高原会」を結成し、1922年には第一作家同盟(D・S・D)に参加[4]、さらに、1924年から1925年にかけての三科[5]、1926年の単位三科[6]といった前衛芸術運動に加わって立体作品や版画に取り組み、雑誌『エポック』や『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム(G・G・P・G)』創刊に参画した[2]。後には、雑誌『芸術市場』を創刊した[4]。
この時期、玉村自身も人妻との恋愛が噂された中で、妻が、詩人の野川隆と駆け落ちをしてしまう[4]。
1930年、方久斗社(ホクト社)を設立し、以降はもっぱら雅号である方久斗を用い、前衛とは異なる方向で日本画家として活動した[4]。
1951年11月8日、東京都杉並区の自宅に於て逝去。享年58歳[7]。
家族
[編集]エッセイストの玉村豊男は息子[2]、八男である[8]。※「父も母も再婚同士。父は自分が小学校に上がる前に病死した」と豊男が語っている[9]。
おもな著書
[編集]脚注
[編集]- ^ 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 2 (学術・文芸・芸術篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、692頁。
- ^ a b c d e f g “玉村方久斗展”. 京都国立近代美術舘. 2015年5月6日閲覧。
- ^ a b 「菊池芳文」『美術人名辞典』 。コトバンクより2015年5月6日閲覧。
- ^ a b c d e f 関井光男「玉村方久斗」『20世紀ニッポン異能・偉才100人』朝日新聞社、1993年11月5日、220-221頁。
- ^ “三科会解散し展覧会中止 内部のごたごたとマヴオ一派に圧迫されて/マヴオ一派の暴れ込み が原因 同人側語る”. 朝日新聞・東京朝刊: p. 11. (1925年9月20日) - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ “変つた顔触で『単位三科』生る 瓦解した例の三科を新しく盛立てる”. 朝日新聞・東京夕刊: p. 2. (1926年5月21日) - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
- ^ “玉村方久斗 :: 東文研アーカイブデータベース”. www.tobunken.go.jp. 2020年12月7日閲覧。
- ^ 「CAREER CRUISING 58歳で拓いた新たな舞台で キャリアの総力を熟成させる 玉村豊男氏」(PDF)『Works』第97号、リクルートワークス研究所、2009年、60-63頁、2015年5月6日閲覧。
- ^ INC, SANKEI DIGITAL. “【話の肖像画】エッセイスト・玉村豊男(2)居心地よいパリのカフェ”. 産経ニュース. 2020年12月7日閲覧。