焦和

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焦 和(しょう わ[1]、生没年不詳)は、中国後漢末期の政治家。

生涯[編集]

初平年間に青州刺史となる。反董卓連合に参加し、洛陽へと攻め上った。その後、袁紹曹操が董卓軍に敗れると[2]黄巾賊の残党が跋扈する事態となる。焦和は優れた武器、多数の兵士を保有していたが、情報を集める斥候を配置しておらず、賊軍の噂や姿を確認しただけで逃走し、激しい戦闘に臨んだことはなかった。室内での清談においては勇ましい議論を展開したが、出陣すると混乱してどんな命令を下すべきか分からず、よろずの神に祈りを捧げ、筮竹や巫女にすがる有様だった。その結果として青州は荒れ果て、一帯は廃墟となった。

焦和が死去した後、袁紹は臧洪に青州を治めさせた。その後、2年間の内に、一帯に跋扈していた賊軍は討伐された。

出典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 日本語読みはちくま学芸文庫正史 三国志』(2巻、p.42)に基づく。
  2. ^ 『三国志』魏書 武帝紀によると、曹操が徐栄に敗れた。