源顕兼

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源顕兼
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 永暦元年(1160年
死没 建保3年2月(1215年3月
改名 兼綱→顕兼
官位 従三位刑部卿
主君 二条天皇六条天皇高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇
氏族 村上源氏雅兼
父母 父:源宗雅、母:石清水別当光清の女
兄弟 具兼、顕兼、女子(顕子)
正三位高階泰経の女
顕清、行兼
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源 顕兼(みなもと の あきかね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。村上源氏雅兼流。非参議従三位。従三位源宗雅の息男。母は石清水別当光清の女。元の名は兼綱。

経歴[編集]

以下、『公卿補任』及び『尊卑分脈』に基づいて記述する。

系譜[編集]

『古事談』の編者[編集]

顕兼は『古事談』を編集したことで知られる。

『新勅撰和歌集』に一首[編集]

顕兼の次の和歌が『新勅撰和歌集』に採用されている[8]

  題しらず
をのれなく こころからにや うつせみの はにをくつゆに 身をくだるらん(巻第十五 恋歌五)[9]

せっかくの勅撰和歌集入集となったが、『新勅撰和歌集』撰進時に顕兼は故人となっており入集の喜びに接することはできなかった。なお、勅撰和歌集入首はこの一首のみ。

脚注[編集]

  1. ^ 皇嘉門院保延3年御給
  2. ^ この時、兼綱を顕兼に改める
  3. ^ 兵衛佐の労
  4. ^ 殷富門院御給
  5. ^ 殷富門院御給
  6. ^ この時、内昇殿は元の如し
  7. ^ 父宗雅の譲り
  8. ^ 『尊卑分脈』では顕兼に「新勅作者」という注記がある
  9. ^ 岩波文庫版『新勅撰和歌集』、985

出典[編集]