渋江公寧

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渋江 公寧(澁江、しぶえ きみやす、1858年安政5年11月[1])- 1896年明治29年)11月30日[1][2])は、明治期の教育者、政治家衆議院議員。字・子静、号・龍伏[3]

経歴[編集]

肥後国菊池郡、のちの熊本県菊池郡隈府町[2](菊池町を経て現菊池市)で、儒学者渋江公木の息子として生まれた[3]。父から学び[3]、1876年(明治9年)熊本県師範学校を卒業[1][3]。漢学塾・遜志堂を開き子弟の教育を行った[1][2]

政界では熊本県会議員に就任[3]。1894年(明治27年)9月、第4回衆議院議員総選挙(熊本県第3区、国民協会)で当選し[4]、衆議院議員に1期在任した[1][2]。議員在任中の1896年11月に死去した[5]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』310頁。
  2. ^ a b c d 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』220頁。
  3. ^ a b c d e 『肥後人名辞書 全』167頁。
  4. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』116頁。
  5. ^ 『官報』第4032号、明治29年12月5日。

参考文献[編集]

  • 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。117
  • 角田政治編『肥後人名辞書 全 複刻版』青潮社、1973年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。