海野幸徳

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海野 幸徳(うんの ゆきのり、1879年 - 1954年)は、日本の社会事業理論家優生学者

略歴[編集]

古屋商会に務めながら、1910年『日本人種改造論』を著す。同書は日本で初めて本格的に優生学を導入した書とされる。以後、『中央公論』、『太陽』、『日本及日本人』などを含む雑誌に大量の文章を発表する。1919年に「優生学の界限に就いて」を記した後、優生学と距離をおく一方、社会事業理論家としての活動を開始。『横浜貿易新報』の客員論説員を経て、仏教大学(のち龍谷大学)教員となる。『社会事業概論』(1927年)や『社会事業学原理』(1930)などの理論書を執筆したほか、社会事業雑誌にも頻繁に論説を発表した。1924年には、建仁寺大統院に設けた海野社会事業研究所が火災にあい、5000冊の書物を失った。1930年にはマルクス主義に傾斜する社会事業青年を攻撃する論著を発表し、逆に様々な社会事業雑誌でバッシングを受けた。戦中は再び優生学への関心を強めたが、戦後には優生学への言及はない。1953年に『厚生学大綱』を著す。

出典・関連書[編集]

  • 中垣昌美『シリーズ福祉に生きる 21 海野幸徳』大空社、1999年
  • 菊地正治「海野幸徳―社会事業の学的体系者」(室田保夫編『人物で読む社会福祉の思想と理想』ミネルヴァ書房、2010年
  • 横山尊「優生学と社会事業―第一次大戦後の海野幸徳の転身を中心に」『社会事業史研究』41号、2012年