木内喜八
木内 喜八(きうち きはち、1827年(文政10年)- 1902年(明治35年)8月19日)は、幕末から明治時代に活躍した日本の木工芸家である[1][2]。号は梅里道人[1][2]、幼名は友吉[2]。
経歴・人物[編集]
江戸の深川(現在の東京都江東区)に船大工の棟梁の設計に携わった家系の子として生まれる[2]。初めは山田流の琴職人であった重元平八の門人となり[2][3]、指物象嵌について学ぶ[2][3]。その後は家業であった船大工や鞘[2][3]、西洋の鉄砲等多くの制作に携わった[2][3]。
後に木細工の製作に専念し[4]、同時期に加賀藩の前田家に仕える[2][3]。1877年(明治10年)に開催された第1回内国勧業博覧会に喜八の作品が出品され[2]、次回の1881年(明治12年)に開催された第2回内国勧業博覧会に2回連続で出品された[2]。喜八の作風は正倉院に所蔵されている古典作品を基に[3]、独創的なものであった[2][4]。その作風は実子(養子とも[1])の木内半古や[2]、孫の木内省古と三代に受け継がれている[2]。なお半古は父が死去するまで[2]、親子二代で正倉院の修理に携わった[5]。