時代世話二挺鼓

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時代世話二挺鼓』(じだいせわにちょうつづみ)は、江戸時代中期の文学作品。山東京伝黄表紙の代表的な作品。3冊。発刊は1788年(天明8年)。京伝27歳の作品。 挿絵は喜多川行麿作。版元は蔦屋重三郎

あらすじ[編集]

上巻[編集]

草双紙作者に京伝という者がいる。毎年版元から新作の趣向を考えるようにせっつかれるたびに、「出来るなら自分の身体が二つも三つもあれば様々な趣向を考えられるのに」と思った。伝え聞くところによると、親王平将門は身体が7つあったという。7人で稼いだらさぞ遣り繰り算段が楽だろうとは思うが、金の使い手も7人になるのだから結局同じこと。世の中には思い通りになることはないもんだ。京橋の伝蔵(京伝のこと)が工夫する草双紙と言えばそもそも、などと言いたい所だが字ばかり多くなってしまう[1]から黙ることにしよう。この黄表紙に女の登場人物がいないのは具合が悪いので、やむを得ずこの場面で黒鳶式部(京伝の妹)を道具として使い兄妹絵人形の挿絵を載せることにした。妹「わたしも無駄な洒落ひとつも言いたいが、ここは黙っていましょう」

第61代朱雀天皇の時代の天慶年間に、平将門が東国で猛威を振るい人民がこれを嘆いていることが朝廷に伝わったので、藤原秀郷が勅命をうけ討手として東国に向かった。公卿甲「どうか将門をぶちのめしておくれ」秀郷「委細承知仕りました。天皇様がこんなことおっしゃるときは何とあいさつするか知らねえし」公卿乙「貴様は俵通太(秀郷の通称俵藤太のもじり。当時流行の通に掛けた)という名と承ったが、近頃俵屋(吉原の妓楼)の吉野(遊女)はどうしているかの。吉野は相変わらず全盛かの」公卿丙「これ秀坊(秀郷のこと)、近頃たびたび天皇様からのお使者がそちの所へ参ったがそちが留守がちだったのは、さだめし居続け(遊里などで、何日も遊んで家へ帰らないこと)していたのであろう。松葉屋か丁子屋か、玉屋か扇屋か、あるいはちょっとひねって深川あたりの尾花屋あたりで居続けかの。俺の家来から言付けを聞いてないか」秀郷「自分は秀郷とは申しますが、里(田舎くさい)っぽくない男さ」

平将門は王位をねらい、東国に内裏を移して岡場所内裏[2]と名づけ、紫宸殿・清涼殿を真似て尾花殿・梅本殿[3]などをこしらえた。そして公卿の替え玉を召抱えて狂歌師のような名を名乗らせたが、現在、「東百官」といって手習いで習うのはこの名である。秀郷は一計を案じて家来を皆後ろの山の中に忍ばせて、自分ひとりで将門と対面した。秀郷「親王様(将門のこと)は早業の名人と承ります。わたくしも少しばかり自信がありますので、ここで早業比べをして、もしわたくしが負けましたらお味方につくことといたしましょう。親王様がお負けなすったら、この内裏をぶっつぶして帰ることにしようではありませんか」将門「そいつはよかろう。お前が負けたときにぐずぐず文句を言わないようにしろよ」(公卿の替え玉が2人でてきて)替え玉甲「われら両人は俵曲持(たわらのきょくもち。俵を使った曲芸という意味)と借上上塗(かりのうえのうはぬり。恥の上塗りと掛けている)と申します。以後、お見知りおきくださいませ」替え玉乙「近頃評判の俵藤太とはお前のことか。わしはこんにゃく島(霊岸島の埋立地の俗称)の通人で名を南鐐の御大臣[4]と申す。以後、お見知りおきくだされ」秀郷「どいつも皆変な名だ。大文字屋[5]の帳場の塗り札にあるような名だ」

将門は、早業に負けたら味方になろうという秀郷の話を本当と思い、自分の早業を見せようとして1人で7人前のを作ってみせた。人には見えないが6人の将門の分身も後ろで手伝う。将門「どうだ、たいしたものだろう。これだったら仕出屋の料理番でもつとまるだろう」そのとき秀郷少しも騒がず、懐中より神明前のなこ屋で買った早業8人前(野菜千切り器)を取り出して、あっという間に8人前の膾をこしらえた。将門より1人前多いので将門の面目を失わせることができた。秀郷「わたくしの料理はあなた様のように出刃包丁は使いませぬ。出刃包丁は博打場の喧嘩に振り回すものさ。大根(細工)はりゅうりゅう仕上げをごろうじろ」

将門は料理には負けたけれど遊芸では負けるものかと七変化の所作[6]をしてみせた。将門「秀鶴に杜若[7]を兼ねた身ぶり(歌舞伎役者の演技をまねる大衆芸能)はたいしたものだろう」(ここのところは「大出来ぬ、大出来ぬ」[8]と書きたいところだ。)秀郷「あまり自惚れたことを言いなさんな。女郎に振られたいのかい(自惚れ客はとかく女郎に振られる)

将門が七変化の所作をやって得意満面となっていたので、秀郷はかねって習っていた1人で8人前の楽器を鳴らす芸を見せ付けた。ちんつん、チャンチャントントンピイラリヒャウ。将門「なるほど器用な奴だ。また1人前分負けた。ちょ、いまいましい」

下巻[編集]

この時将門は文字の早書きだったら秀郷もかなうまいと思い、自分の分身を使って「七ついろは」(いろは48文字のそれぞれに漢字6字ずつを書き並べた本)をいっぺんに書いてみせた。秀郷はそれにも負けまいと「早引節用」(いろは引きの辞典)を使っていろは48文字それぞれに漢字7字を引いて見せ、そのうえ「やがらの鉦」[9]を一度に打ってみせた。将門「やたらむしょうに鉦を打ってらいいや」(道中双六と市村羽左衛門の所作では見たことがあるが、やがら鉦というものは目の回りそうなものだ)

将門は秀郷にやりこめられて大層いらつき、みずからの化物の正体をあらわしてしまった。将門「俺は本当は身体が7つあるから、このような早業ができるのだ。お前にはよもやこのまねはできまい」と7つの姿を現してみせた。将門の分身たち「どうだ不思議だろう」秀郷「内裏人形の親王をたくさん干したところを見るようだ。親王命をあげ巻の~[10]じゃあねいかい」将門「今年は公卿の当たり年だい。しかし、公卿のなかにはだいぶ腐りかけたのもいるみたいだ」

秀郷はこの様子を見て、秀郷「わたしは姿が8つあるからお前よりも勝っている。お前には見えないだろう。この眼鏡で見てみろ」と、駒形の眼鏡屋で買った八角眼鏡(物が8つに見える眼鏡?)を将門にかけさせて自分の姿を見させた。秀郷「どうです、たいしたもんでしょう。こういう姿はいい男でしょう。新造女郎が見ればすぐに惚れこむでしょう」将門が八角眼鏡で秀郷を見ると、なるほど8人に見えるので肝をつぶした。

秀郷「約束どおりこの内裏の主であるあなたを追い出して、『この建物売ります』という札を貼って帰りましょう」と言ったので、将門は大いに怒って7人の将門にそれぞれ槍を持たせて秀郷に突きかかった。秀郷「女郎屋でも遣り[11]ときては面白くもないのに、このうえどんな槍がでるかわかったものじゃない」このとき将門は上田紬の着物を着ていたので、これを上田の七本槍という。秀郷は太刀の切り合いではかなうまいと思い、日頃信心する浅草観音を念じると、不思議なことに雲中に観音様が現れ、千の矢先(千手観音だから)を揃えて将門を射た。観音様も久しく矢を放ったことがなかったので、千の矢先のうち九百九十三筋は外れたが、残りの七筋が7人の将門のこめかみを射抜いた。観音「ドドン、カッチリという音[12]がしないから張り合いがないね」

将門が仏の慈悲の矢に当たって弱ったところに秀郷がすかさず近寄って首を刎ねると、不思議なことに切り口から血潮が空へ吹き上げ7つの魂が飛び出た。(魂が7人連れで飛んでゆく)魂「先にたつ魂やい、ちと待てや、付き合いというものを知らないのかい」ポンポンポンポンポンポンポン(魂が飛び出していく音)秀郷「あら不思議、心太屋の看板みてえだ」(秀郷は魂が飛び出す様子を見て花火の仕掛けを考案した)秀郷「この魂が一分金だったら一両が四分だから一両三分の価値があるぜ。吉原の高い遊女を買っても二分残る」秀郷が隠していた軍勢がこれを合図の狼煙と思って攻め寄せてきた。軍勢「皆々急げ、急げ。あれあれ合図の狼煙があがった。なかなか埒があかないのでは、狼煙狼煙(鈍し鈍しを掛けた)」

秀郷は、難なく将門を退治できたのも浅草観音のご利益だと、狩野元信に繋ぎ馬(将門の家紋)を描かせ、これを絵馬として奉納した。また将門の霊を祭ったのが神田明神である。この頃神田に毎夜毎夜七曜の星が光を放つのは将門の霊魂である。2冊ものに首尾よくまとまってめでたしめでたし。

執筆の背景[編集]

天明4年(1784年)、若年寄田沼意知が江戸城中で旗本佐野政言に刺殺された。これをきっかけに天明6年(1786年)に田沼政権が崩壊し、翌年田沼家の領地と城が没収されると、これを格好の材料とした多くの黄表紙が出版された。その代表的なものが朋誠堂喜三ニの『文武ニ道万石通(ぶんぶにどうまんごくどおし)』と本作品である。朋誠堂喜三ニはこれによって主家秋田藩から文筆を止められ戯作と絶縁するが、京伝は婉曲表現を駆使していたために事なきを得たのである。以下、本作で田沼政治を諷していると思われている部分をあげておく。

  • 上巻第2段に登場する公卿はいずれも吉原や深川の遊里の事情に通じており、田沼時代の幕府高官の放逸さを感じさせる。
  • 上巻第3段に登場する南鐐二朱銀は田沼意次の命令により鋳造されたもの。「南鐐の御大臣」とは田沼意次に対する皮肉かとも思われる。
  • 上巻第4段に登場する出刃包丁の出刃(出羽)は水野出羽守忠友を暗示していると思われる。水野は意次の息子田沼意正を養子に迎えたことで老中にまで昇進し沼津に領地を与えられている。なお田沼失脚後、意正は水野家を離縁されている。
  • 下巻第5段に登場する7つの魂は田沼家の家紋七曜星を暗示している。
  • 下巻第6段に登場する七曜の星は田沼が先祖の将門と同様逆臣であったということを暗示している。

脚注[編集]

  1. ^ 黄表紙は大人向けの絵本といわれる程に挿絵が本文同様に重要な役割を果たしている。挿絵と本文を並行して味わうところは現在の漫画と同様である。したがって挿絵と本文のバランスには大変気を使った。
  2. ^ 私娼屋の集まった非公認の遊里が岡場所だから、岡場所内裏とは公認されていない内裏という意味。
  3. ^ 尾花屋・梅本は深川にあった当時一流の茶屋。
  4. ^ 南鐐二朱銀は安永元年から通用した銀貨で一両の八分の一の二朱の価値をもっていた。霊岸島の娼婦の代金は二朱だから南鐐二朱銀1枚で買える。安上がりな遊びをしながら大臣ぶるという皮肉
  5. ^ 大文字屋市兵衛は吉原の狂歌グループの中心で狂名は加保茶元成。したがって吉原の狂歌連中の名前が帳場にでも張ってあったのかもしれない。
  6. ^ 歌舞伎の所作で、1つの舞台で順に7つの役に扮して踊るもの
  7. ^ 秀鶴は中村仲蔵の俳名、杜若は岩井半四郎の俳名。いずれも変化所作事で当時好評を博していた。
  8. ^ 芝居の評判記では、高評価は大出来といったので、大出来の反対と皮肉った。
  9. ^ 叩き鉦に紐をつけたものを8つ腰に結びつけ左右に振りながら両手に持った撥でうつもので歌念仏などに使用した。
  10. ^ 歌舞伎「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」にある「しんぞ命をあげ巻の、これ助六が前わたり、風情なりける次第なり」のもじり。親王将門が命をささげるという意味で使っている。
  11. ^ 1人の女郎に馴染み客が重なった場合、もらいがかかった場合は遣らなければならなかった
  12. ^ 盛り場にある弓場では、矢が的に当たるとカチリ、的を外れると外側に張った皮に当たるのでドドンという音がしたらしい。