愛新覚羅載イ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
本来の表記は「愛新覚羅載」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。
載漪

愛新覚羅 載漪(あいしんかくら さいい、1856年1922年)は、の皇族。

道光帝の第五皇子惇親王奕誴の子。瑞敏郡王奕誌嘉慶帝の第四皇子瑞親王綿忻の子)の跡を継ぎ、38歳で端郡王となった。西太后の甥で光緒帝のいとこにあたる。

戊戌の政変後、載漪の子溥儁が西太后によって大阿哥(皇太子)に擁立されたが、外国公使の支持を得ることはできなかった。西太后は反対を押し切って1899年4月に溥儁を即位させ、保慶と改元し、光緒帝を廃位した。しかし各方面から反対がおこり、西太后は光緒帝を廃位する計画を断念せざるを得なかった。

義和団の乱では、主戦派で弟の輔国公載瀾とともに積極的に義和団を利用することを主張した。連合軍が北京に近づくと西太后とともに西安に向かった。義和団鎮圧後、8ヶ国連合軍から戦犯に指名され、死刑を要求されたが王族だったため1902年に朝廷は載漪一家を新疆省に追放処分とした。移動途中のモンゴルに留まることになり、当初は友人や西太后の援助で裕福に生活できたが有力者と不和になり、中華民国建国後、甘州に移って医師の長男の収入と北京政府からの生活費の支給で暮らした。1921年に長男が亡くなると葬儀と埋葬のために北京に行き、またすぐにもどり1927年に亡くなった。享年73。

子孫に高名な画家の愛新覚羅恒懿がおり、著書「世紀風雪 幻のラストエンペラー」で載漪の追放とその後について記している。


関連項目[編集]