平沢要

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平沢 要(ひらさわ かなめ、1891年明治24年〉4月11日[1] - 1957年昭和32年〉5月25日[2])は、日本逓信官僚

経歴[編集]

長野県上伊那郡西春近村(現・伊那市)出身。旧制第一高等学校を経て、1916年大正5年)に高等文官試験に合格し、翌年に東京帝国大学法科大学独法科を卒業した[3]。逓信省に入り、為替貯金局書記、同事務官補・逓信事務官補、電気局事務官、逓信省参事官・大臣官房文書課勤務、逓信書記官・電気局監理課長、同業務課長、大臣官房文書課長、広島逓信局長を歴任[3]1936年(昭和11年)、逓信省電務局長・逓信官吏練習所長となり、翌年には逓信次官に就任した[3]

退官後は中支那振興株式会社副総裁に就任し、1943年(昭和18年)まで在任した[4]。その後は関東配電株式会社社長を務めた[2]

戦後、1947年(昭和22年)10月から1951年(昭和26年)8月まで公職追放となった[2]

脚注[編集]

  1. ^ 大衆人事録 1930.
  2. ^ a b c 戦前期官僚制研究会編『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』東京大学出版会、1981年、193頁。
  3. ^ a b c 日本官界名鑑 1937.
  4. ^ 人事興信録 1943.

参考文献[編集]

  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第3版』帝国秘密探偵社、1930年。 
  • 日本官界情報社編『日本官界名鑑 昭和十三年版』日本官界情報社、1937年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第14版(下)』人事興信所、1943年。