富井於菟

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富井 於菟(とみい おと、慶応2年6月7日1866年7月18日) - 明治18年(1885年12月2日[1])は、日本の社会運動家、教師婦人解放運動のさきがけとしてその名を知られる。別名に富井とら(虎子)。

来歴[編集]

播磨国龍野の醤油問屋の娘として生まれる。兄一人、姉三人、妹一人いる。幼い頃から学問が好きで、1878年に公立龍野中学校入学、1881年明治14年)同校を卒業し、翌年小学高等科教員免許を受ける[2]。京都にのぼり岸田俊子のもとで学ぶ、その後上京し、自由燈の校正係となり、その後絵入自由新聞の記者として奉職。日本で最初の女性新聞記者と呼ばれる。新聞記者従事中に、福田英子と知り合い[3]婦人解放運動を活動させる。

その後キリスト教に入信し、1885年明治18年)明治女学校の漢文と数学の教員[1]として赴任する。しかし、間もなく腸チフスに罹患[1]し、同年12月2日夭折。満19歳没。

参考文献[編集]

  • 青山なを「富井於菟の場合」『明治女学校の研究』慶応通信、1970年、197-234頁。全国書誌番号:71008250 
  • 内海繁「冨井於菟小伝」『兵庫のペン』第5号、1977年、ISSN 02895757 内海繁「冨井於菟小伝」『播州平野にて 内海繁文学評論集』未来社、1983年、7-30頁。全国書誌番号:83047444 
  • 広田昌希 著「冨井於菟とその周辺」、龍野市史編纂専門委員会 編『龍野市史』 3巻、龍野市、1985年、163-186頁。全国書誌番号:85056966 

脚注[編集]

  1. ^ a b c 嵯峨正作 編『大日本人名辞書 明治19年2月』経済雑誌社、1886年2月、1859頁。NDLJP:779850/131 
  2. ^ 「教員履歴書」『千代田区史』 中、千代田区、1960年、479頁。 NCID BN06184182 
  3. ^ 福田英「於菟女史」『妾の半生涯』福田英、1904年10月25日、30-31頁。NDLJP:781943/25 

外部リンク[編集]