寂光寺 (大阪市)

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寂光寺
所在地 大阪府大阪市東淀川区南江口3丁目13-23
位置 北緯34度45分12.291秒 東経135度33分13.072秒 / 北緯34.75341417度 東経135.55363111度 / 34.75341417; 135.55363111
山号 寶林山
院号 普賢院
宗派 日蓮宗
創建年 元久2年(1205年
正式名 寶林山普賢院寂光寺
別称 江口君堂(江口の君堂)
法人番号 8120005001032 ウィキデータを編集
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江口君堂(浪花百景)
寂光寺(江口の君堂)

寂光寺(じゃっこうじ)は、大阪市東淀川区にある日蓮宗の尼寺[1]。正式名称は宝林山普賢院寂光寺[2][3]。別名を江口君堂(えぐちのきみどう)といい、江口の君(妙女)と西行法師の歌問答が知られている[4]。旧本山は、谷町妙経寺。生師法縁。

歴史[編集]

創建から再建[編集]

元久2年(1205年)、妙前光相比丘尼が開創。元弘延元の乱で焼失したが、赤松丹波守が重態の折に焼け残った普賢菩薩像を信仰すると奇跡的に治癒したことで信者が多くなり、正徳年間(1711年頃)普門比尼が再建し、それまでの天台宗を日蓮宗に改めた[4][5]

勝川春亭画「江口の君」。遊女の姿を借りた普賢菩薩。普賢菩薩の乗り物としてよく描かれる白象の背に乗っている

西行と歌問答[編集]

光相は江口の君と呼ばれた遊女で、西行と歌問答したとされている[4]。「江口の君」という言葉は平安時代から鎌倉時代にかけて摂津国江口に集まっていた遊女の総称だったが、謡曲「江口」ができて以降、西行法師と歌問答をしたとされる遊女の妙(たえ)のことを指すようになった[6]。妙は平家没落後、遊女に身を落とした平資盛の娘とも言われている[7]。歌問答とは『新古今和歌集』にある西行の「世の中を厭ふまでこそ難からめ かりのやどりを惜しむ君かな」と遊女妙の「世を厭ふ人とし聞けば かりの宿に心とむなと思ふばかりぞ」のことで、西行が旅の途中、江口の里で雨宿りを頼んだが断られ、「出家に比べたら宿を貸すなどたやすいことなのにそれすら惜しむのか」と詠んだところ、妙から「出家者と思えばこそ、このような宿に心を留めてはいけないと思ったのだ」と返された、というもの[7]。謡曲「江口」では、ある僧が江口の里に差し掛かると江口の君の霊が現われ、妙の返歌の真意を告げ、世の無常と執着の罪を説いて静かに舞ったのち、普賢菩薩に姿を変えて天上に消えていく[7]

文化財[編集]

  • 西行・妙の供養塚[8]
  • 西行・妙の歌碑[9]
  • 撰集抄内の「江口遊女尼事」のエピソード[10]
  • 江口の鐘[8]
  • 江口の君妙女の木像[11]
  • 狩野元信筆の妙女の図像[11]

所在地・交通[編集]

大阪府大阪市東淀川区南江口3丁目13-23

脚注[編集]

  1. ^ 『大阪の歴史と風土』 P407
  2. ^ 大阪再発見! 江口君堂(大阪市東淀川区)
  3. ^ 『難波大阪』 P94
  4. ^ a b c 『大阪府の地名I』 P608
  5. ^ 『大阪史蹟辞典』 P256
  6. ^ 江口の君(読み)エグチノキミコトバンク
  7. ^ a b c 能絵手鑑 三番目物 江口 能絵館
  8. ^ a b 「私家版 淀川三区稗史」三善貞司著 P13
  9. ^ 「私家版 淀川三区稗史」三善貞司著 P12
  10. ^ 「大阪伝承地集成」 清文堂出版 P248-249
  11. ^ a b 「大阪市立大隅小学校創立90周年記念誌」 大阪市立大隅小学校 P48

参考資料[編集]

  • 『大阪の歴史と風土』 (毎日放送文化双書1)
  • 『伝説と稗史(3)』(新和出版社)
  • 『大阪史蹟辞典』 (清文堂出版)
  • 『大阪府の地名I』 (平凡社)
  • 『難波大阪』 (講談社)