定済

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定濟(じょうさい、承久2年(1220年) - 弘安5年10月3日1282年11月4日))は鎌倉時代前期から中期にかけての真言宗内大臣土御門定通の子で、母は葉室光親の娘。

醍醐寺三宝院憲深に師事にて出家。後に憲深より三宝院を譲られて同院を中興する。寛元元年(1243年)に三会を講じて、寛元2年(1244年法眼に叙せられた。寛元3年(1245年権少僧都に任ぜられる。宝治元年(1247年)に権大僧都に進み、建長5年(1253年)に法印に叙せられた。

建長8年(1256年実深の後を継いで醍醐寺座主に補任され、文永4年(1267年東大寺別当となる。文永10年(1273年僧正に進み、弘安3年(1280年東寺長者、弘安4年(1281年)に大僧正に至った。また同年に勅命を受けて伊勢神宮に参り、蒙古降伏を祈祷した。弘安5年(1282年)10月3日、63歳で入寂。弟子に定勝通海・定海などがある。

参考文献[編集]

  • 卍元師蛮「城州醍醐寺沙門定済傳」『本朝高僧傳』(1702)
  • 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社(2001)