孫怡

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孫 怡(そん い、生没年不詳)は、中国三国時代の武将。東州の人で、孫呉宗室とは別系統の孫氏[1]

生涯[編集]

赤烏元年(238年)、遼東半島に割拠する公孫淵の侵攻を知ると、呉に救援を要請した。呉の人々はかつて公孫淵に送った使者を斬られた経験から、来訪した使者を斬ろうとしたが、羊衜の「奇襲部隊を派遣して様子を見させ、魏が敗れれば追撃して恩を売り、膠着状態となれば近隣の郡を略奪して帰れば彼らへの罰となります」という提案が採用されることとなった[2]。そうして派遣された羊衜・鄭胄・孫怡らは赤烏2年(239年)3月に遼東に到着したが、その時には既に公孫淵は滅んでいた。そこで魏の守将である張持・高慮を攻撃して撃ち破り、住民を捕虜として帰還した。

赤烏4年(241年)、皇太子孫登は臨終に際して上疏し、多くの臣下を称揚した。その中で諸葛瑾歩騭朱然全琮朱拠呂岱吾粲闞沢厳畯張承孫怡らを指して、「(彼らは)国家のために忠誠を尽くし、政治に通暁しております」と述べた[3]

現存する孫怡にゆかりのある物品として、天理参考館に所蔵される『重列式神獣鏡』がある。この銅鏡の周縁には「将軍孫怡士張平竟■寸」と刻まれており、孫怡の兵士の張平の所有した鏡と分かる[4]

出典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 「東州」とは中原の東方を大雑把に指す語句で、例えば青州北海郡出身の鄭玄は『漢紀』の中で鄭泰から「東州有鄭康成」と呼ばれた。呉の宗室とは別の孫氏には他にも、北海郡出身の孫邵らがいる。
  2. ^ 『三国志』魏書 公孫度伝注『漢晋春秋
  3. ^ 『三国志』呉書 孫登伝
  4. ^ この銅鏡の出土地は不明。また「(上位者)+(所持者の身分)+(名前)」といった銘文形式は呉ではしばしばみられた。「上大将軍校尉李周竟」「陸凱士李■」「呉将軍士張興竟」など。實盛良彦『銅鏡から読み解く2~4世紀の東アジア』(勉誠出版、2019年9月9日)より。