大橋淡雅

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大橋淡雅像(部分) 椿椿山筆

大橋 淡雅(おおはし たんが、天明8年(1788年) - 嘉永6年5月17日1853年6月23日))は江戸の豪商。書画コレクター・鑑定家として知られ渡辺崋山佐藤一斎などの文人・画人と交遊した。

名は知良・を温卿・通称孝兵衛のち良左衛門。晩年に淡雅とした。別号に東海享軒。下野国の生まれ。

略歴[編集]

下野国都賀郡の医師高橋英斎の子として生まれたが、15歳のとき宇都宮の古着商佐野屋を営む菊池家[1]の婿養子となる[2]

1814年(文化11年)、26歳のとき岳父孝古(治右衛門)から資財を受けて江戸日本橋元浜町(現日本橋富沢町日本橋大伝馬町)に佐野屋の別店を出す。以来、20年間商才を発揮して呉服商真岡木綿の中継問屋・両替商と事業を拡大。江戸を中心に関東一円に50店以上を持つ豪商となる。

財を成した晩年から書画をコレクション[3]し、書法の鑑定家として知られるようになる。また佐藤一斎渡辺崋山椿椿山立原杏所[4][5]など文人墨客と盛んに交遊し、同郷の画家高久靄厓を熱心に支援している。明の書家張東海に私淑して草書を能くし東海享軒[6]と号した。

著書『淡雅雑著』では商人の道義と徳を述べ、「余りあれば必ず施し、人を富まして自ら富む」と説いている。事実、天保の大飢饉では惜しみなく私財を投じて救民に尽くした。享年66。谷中天王寺に葬られる。

なお淡雅の妻民子(1795 - 1864)は雅号を倭文舎(しずのや)とし歌人として知られる。歌集『倭文舎集』・紀行文『江の嶋の記』を著した。息子の菊池教中、娘婿の大橋訥庵は勤王家として知られる。娘巻子も歌人として知られ、坂下門外の変で投獄された夫・訥庵と弟・澹如への思いを綴った『夢路日記』は勤王の志士を奮い立たせた。

著作[編集]

  • 『淡雅雑著』上巻「保福秘訣」・中巻「富貴自在」

脚注[編集]

  1. ^ 菊地とも。
  2. ^ 菊池家の婿であったが終生大橋姓を名乗った。
  3. ^ 書画商安西雲煙らと書画の展覧会・鑑定会を開催した。 佐藤温「豪商大橋淡雅における文事と時局」
  4. ^ 南画家の杏所は淡雅の娘・巻子に恋焦がれるも、娘婿として儒学者を強く望んでいた淡雅の反対で想いは報われることはなかった。そもそも商家の淡雅に対し、杏所の本職は武家(水戸藩士)である。杏所は傷心を癒すためか巻子への想いを募らせて楊貴妃図を描いている。
  5. ^ 他に山口管山塘宅山関藍梁大窪詩仏巻菱湖小山靄外大竹蔣塘相沢石湖山内香雪など
  6. ^ のちに菊池家が経営する東海銀行(名古屋の東海銀行とは別の銀行)の名の由来となる

参考文献[編集]