大久保立

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大久保立

大久保 立(おおくぼ たつ、1871年6月9日(明治4年4月22日[1])- 1941年昭和16年)2月4日[1])は、明治から昭和前期の海軍軍人政治家華族。最終階級は海軍造船中将貴族院子爵議員。旧名は三枝(みつえ)[1]子爵大久保一翁の子。

経歴[編集]

旗本静岡藩士大久保忠寛の三男として生まれる[2]。父の死後、兄である大久保業が襲爵したが2年後に[3]28歳で死去したため、1890年(明治23年)8月7日、家督を相続し子爵を襲爵[1][4]1898年(明治31年)4月、グラスゴー大学造船課を卒業し、1899年(明治32年)1月に帰国した[1]

1899年2月14日、海軍造船少技士に任官し呉造船廠造船科主幹に就任[1]。以後、横須賀造船廠造船科主幹、兼海軍大学校教官、横須賀海軍工廠造船部部員、江都丸乗組、関東丸乗組、横須賀工廠造船部部員、関東丸工作長、舞鶴海軍工廠造船部長心得などを経て、1912年(大正元年)12月1日、海軍造船大監に昇進し舞鶴工廠造船部長に就任[1][5]佐世保海軍工廠造船部長を務め、1918年(大正7年)12月1日、海軍造船総監に進み横須賀工廠造船部長となる[1][5]1919年(大正8年)9月23日、海軍武官官階表の改正により海軍造船少将と改称され、艦政本部出仕を経て、1922年(大正11年)12月1日、海軍造船中将に昇進と同時に待命となる[1][5][6]1923年(大正12年)3月31日予備役1933年(昭和8年)4月22日後備役を経て、1938年(昭和13年)4月22日に退役した[1]

1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され[7][8]研究会に所属して活動し死去するまで在任[9][10]。その他、資源審議会委員、液体燃料委員会委員、学習院評議会議員などを務めた[1][9]。墓所は多磨霊園

栄典[編集]

位階
勲章等

親族[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k 『日本海軍史 第9巻』557頁。
  2. ^ a b c d 『平成新修旧華族家系大成 上巻』284頁。
  3. ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、123頁。ISBN 978-4-06-288001-5 
  4. ^ 『官報』第2133号、明治23年8月8日。
  5. ^ a b c 『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』337頁。
  6. ^ 『日本海軍将官辞典』76-77頁。
  7. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、33頁。
  8. ^ 『官報』第3869号、大正14年7月16日。
  9. ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』39頁。
  10. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、50頁。
  11. ^ 『官報』第3893号「叙任及辞令」1896年6月22日。
  12. ^ 『官報』第3223号「叙任及辞令」1923年5月1日。
  13. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  14. ^ 東京大学植物標本室に関係した人々大場秀章・秋山忍、日本植物研究の歴史 小石川植物園300年の歩み、東京大学総合研究博物館

参考文献[編集]

  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史 第9巻』第一法規出版、1995年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
日本の爵位
先代
大久保業
子爵
大久保(忠寛)家第3代
1890年 - 1941年
次代
大久保寛一