和田一次

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和田一次

和田 一次(わだ かずつぐ、1884年明治17年)5月27日[1] - 1949年昭和24年)3月19日[2])は、宮崎市長判事

経歴[編集]

宮崎県宮崎郡清武町(現在の宮崎市)に吉田格太郎の二男として生まれ、和田重明の養子となった[1][3]1911年(明治44年)に東京帝国大学法科大学法律科を卒業し、司法官試補となった[1][3]1913年大正2年)、判事となり、水戸区裁判所判事、水戸地方裁判所判事、東京地方裁判所判事を歴任した[1]

1917年(大正6年)、台湾総督府法院判官となり、台北地方法院判官、覆審法院判官、高等法院覆審部判官を歴任した[1]1920年(大正9年)、台湾総督府事務官に転じ、法務部民刑課長監獄課長、法務部長、総督官房文書課長調査課長、台湾総督秘書官を務めた[1]

1929年(昭和4年)、再び判事となり、広島控訴院部長、函館地方裁判所長、札幌地方裁判所長、長野地方裁判所長、福岡地方裁判所[1]神戸地方裁判所[3]大審院部長[2]を歴任した。

退官後の1945年(昭和20年)、宮崎市長に就任したが、間もなく退任。その後、公職追放となった[4]。追放中の1949年(昭和24年)に死去した。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g 『大日本法曹大観』p.449
  2. ^ a b 『日本の歴代市長』第3巻、p695
  3. ^ a b c 『人事興信録』
  4. ^ 公職追放の該当事項は「翼賛宮崎市」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、708頁。NDLJP:1276156 

参考文献[編集]

  • 大日本法曹大観編纂会『大日本法曹大観』国民社、1936年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第14版(下)』人事興信所、1943年。 
  • 『日本の歴代市長 第3巻』歴代知事編纂会、1985年。