吉見幸和

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

吉見 幸和(よしみ ゆきかず/よしかず、寛文13年/延宝元年9月15日1673年10月24日)‐ 宝暦11年4月26日1761年5月30日))は、江戸時代前期から中期の国学者神道家神職である。字は子礼。号は恭軒、風水翁。通称は定之助等。

経歴・人物[編集]

尾張名古屋東照宮祠官である吉見恒幸の三男として生まれる。

幼少の頃に尾張藩徳川綱誠に仕え、元禄4年(1690年)父恒幸の長男が病気になり、次男が夭折したため正四位下に叙せられ、名古屋東照宮の祠官となった。その後上京し浅見絅斎の門人となり儒学を、正親町公通玉木正英らの門人となり垂加神道をそれぞれ学んだ。また同時期に契沖の門人となり、和歌も学んだ。『五部書説弁』を著して考証的学風によって神道五部書偽書であると批判し、度会神道吉田神道についても痛烈に批判した。

著作は他に『神代正義』、『神代直説』等がある。

出典[編集]

  1. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『吉見幸和』- コトバンク
  2. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典(ブリタニカ・ジャパン)『吉見幸和』- コトバンク
  3. 朝日日本歴史人物事典(朝日新聞出版)『吉見幸和』- コトバンク