吉田盛之

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吉田 盛之/吉田モリト(よしだ もりと、1972年 - )は、日本の美術家・プロデュサー。2016年からさどの島銀河芸術祭[1]をプロデュースしている。新潟県佐渡市出身。

来歴・人物[編集]

出生後まもなく、両親の都合で、埼玉県、宮城県、新潟市など転居を重ね、18歳までを佐渡市で過ごす。幼少期にさまざまな超常現象を経験。宇宙に強い憧れを抱く。当時病弱であった盛之の体を気にした母親が、強い体を育むために一年中半ズボンを履かせて外出させていた。学校では、体育以外の成績は優秀であった。

ヨシダ モリト

吉田 盛之/吉田モリト
生誕 1972年3月24日
新潟県佐渡市
国籍 日本の旗 日本
影響を受けたもの サイケデリック、オカルティズム、シュルレアリスム
肩書き 美術家、画家、グラフィックデザイナー、ミュージシャン、さどの島銀河芸術祭プロデューサー、(一社)佐渡国際芸術推進機構 代表理事、高校美術非常勤講師
公式サイト www.moritoyoshida.com
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1990年代[編集]

若い時期に横尾忠則に出会い、横尾の「君も天使が見えるんだね」発言に触発される。モデルやタレント業の後、株式会社スバルインターナショナルに入社。そこで、現代美術家、映像作家、グラフィックデザイナー、VJ、文筆家の宇川直宏と出会い、アシスタントグラフィックデザイナーとして活動後、出向先の日本のグラフィックデザイナー・アートディレクター村瀬秀明が代表を務める、株式会社デザインオフィスナークにアシスタントデザイナーとして入社。ラフォーレ原宿キャンペーン、千葉県企業庁幕張メッセの開業キャンペーン、資生堂『花椿』、光文社『CLASSY』などのデザインに携わった後、独立。

1995年からJ-WAVEのプロモーション用CD-ROMのグラフィックデザイン、デジタルハリウッドの講師、新宿 ギャラリー陶にて個展などを行い、PARCO WEBサイト立ち上げに伴い、WEBデザイナー、アートディレクターとして起用される。 TAKEO-KIKUCHIのWEBデザイン、アートディレクション、渋谷PARCO、池袋PARCOキャンペーンの為の写真、グラフィックデザイン、WEBデザイン、アートディレクションなどを手がける。

1996年にベネトングループが、コミュニケーションリサーチセンター「ファブリカ(Fabrica)」が、世界中から選抜された若手クリエーターたちが商品デザインやウェブ、映像など、さまざまなセクションでクリエーティビティを発揮する場として1994年に創立されたのをCOLORS(カラーズ)United Colors of Benetton 1991年創刊(地球上で起こっている様々な問題や国々の違いを言語ではなく、ビジュアルに訴えかける雑誌)で知り、イタリアに直接電話をかけて問い合わせると、ディレクターがちょうど来週から東京に向かうことを教えてもらいアポイントメントを取り、直接お会いしてプレゼンした結果、「ファブリカ(Fabrica)」からアーティストとして招待される。同時期、DJとしても活動していた宇川氏と進行を深め、当時『rockin'on』(ロッキング・オン)のデザイナーであった大類信が経営する乃木坂のCLUB"THE DEEP"で月1回土曜日のレギュラーを持つ宇川氏のレコード運びの手伝いをする名目で毎週通うようになる。同年、表参道のクラブ"MANIAC LOVE"のチームが新宿御苑にオープンさせたクラブAutomaticsの中のラウンジAtomageでレジデントDJとなった宇川氏のレコードを運ぶ手伝いとして、毎週末同行する。また、AtomageはボンデージショップAZZLOが経営しており、クラブ内にギャラリーが組み込まれていたことから、出入りするようになる。

1997年1月、「青山OFF」にてビデオインスタレーション、一時帰国していた宇川氏と表参道のクラブ"MANIAC LOVE"で再会(BOREDOMSのEYE(山塚アイ)も同席)。先の「ファブリカ(Fabrica)」の招待渡伊と宇川直宏のアシスタントの道とで迷ったが、宇川氏のスタイルに共鳴し、アシスタントとして渡米を決意。その時期、元々宇川氏と初めて出会った会社が3Dアプリケーション『Infini-D』日本支社からの赴任依頼を受けており、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコに移住。キャロライナーコミューンのリーダーであるGruxらを紹介され親睦を深める。同年より日『STUDIO VOICE』で、現地取材をもとにした「UKAWA’S Californian Shock Hunter」の写真撮影担当。インカの女帝の末裔イマ・スマックやチャーチ・オブ・サブジーニアス、真性ネクロフィリアであるキャレン・グリンリーのインタビュー、S.R.Lのテスラコイル取材などをおこない、以降この連載は2年つづく。宇川氏と、CLUB DECOに通い始め、DJ Q−BERTやインビジブル・スクラッチ・ピクルズのメンバーと交流。この頃、後に、現在の「ヴォーグ ジャパン」新編集トップ就任したティファニー・ゴドイ[2]とどこかのクラブで出会い親交を深める。同年、ビザの都合で日本へ帰国。

1998年1月、東京大学の駒場寮内にオープンしたオルタナティブ・スペース&ギャラリー「OBSCURE」にて、大学を卒業して1997年に東京へ移住したティファニー・ゴドイと写真展を行う。当時集まっていたメンバーは、ハッチ(Hach)、Rudolf Eb.er、武盾一郎、山根康弘、白井知樹、KUJUN(佐藤久順)、安彦さちえ、Chunjirou、長谷井宏紀、鷹野依登久、KOUTROR、浅野忠信、Randy Simpson、谷本光隆、伊東篤宏。現在それぞれ俳優、音楽家、映画監督など世間に羽ばたいて活躍している。短編映画『W/O』(2000年)にも出演。デザインの仕事としては、フォルクスワーゲンジャパンのWEBデザインや各種広告デザインに携わったのち、ドロップアウト。代々木公園で1週間ホームレスを体験し、一旦東京から離れることを決意する。

1999年3月、新潟県新潟市に居住を移し、大日本印刷株式会社 新潟事業部デザイン部署に契約社員として入社。デザイン部署にて、各種グラフィックデザイン、WEBデザインを担当。毎晩徹夜が続き、隣席の同僚が過労死することがあったが、2000年3月 大日本印刷株式会社 契約満了の為退社。

2000年代[編集]

2000年3月、東京に戻り、再び宇川氏のアシスタントデザイナーになる。

2001年3月、那覇情報システム専門学校のデジタルクリエイター科講師として沖縄に移住する。同年、琉球大学 教育学部の集中講義にジェームズ・タレルが訪れ、話す機会を持つ。タレル氏から自身の作品のローデン・クレーターの話を詳しく聞いたり、 丁度、第1回の大地の芸術祭で光の館を作成した翌年だったので、泊まりに行った友達の感想を伝える。新潟や日本の田舎の話になり、佐渡出身と話すと「いつか君も誰にも理解されなくても地元で何かやった方がいい」と言われる。

2002年12月、沖縄県うるま市(旧石川市)のぬちしぬじガマという洞窟でインスタレーションをオーストリア留学生sigiと専門学校の生徒等と協力して行う。この展示には、椹木野衣が訪れた。

2003年3月、契約満了の為、那覇情報システム専門学校を退社、東京に戻り活動を活発化。

2011年4月、祖母の介護のため帰省し、株式会社インタークロス新潟支社にアートディレクターとして入社。翌年4月ジョルダン株式会社に出向。

2014年8月、株式会社インタークロス佐渡支社に転属。

2016年4月、新潟県立佐渡総合高等学校の美術の非常勤講師となる。8月「さどの島銀河芸術祭[1]」を立ち上げ、開催。以降毎年開催。12月 株式会社インタークロス佐渡支社に退社。

2018年、「さどの島銀河芸術祭[1] 2018」のコミュニケーション・ディレクター。同年10月、一般社団法人 佐渡国際芸術推進機構[3] 代表理事に就任。

脚注[編集]

  1. ^ a b c さどの島銀河芸術祭” (jp). さどの島銀河芸術祭. 2024年4月10日閲覧。
  2. ^ FASHIONSNAP (2022年9月1日). “新生「ヴォーグ ジャパン」が目指すものは?新トップのティファニー・ゴドイに直撃”. FASHIONSNAP [ファッションスナップ]. 2024年4月10日閲覧。
  3. ^ 一般社団法人 佐渡国際芸術推進機構”. sia-promotion.org. 2024年4月10日閲覧。