叱列平

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叱列 平(しつれつ へい、504年 - 554年)は、中国北魏末から北斉にかけての軍人。は殺鬼。本貫代郡[1][2][3]

経歴[編集]

代々にわたって酋帥をつとめた家柄に生まれた。容貌にすぐれ、ひげが美しく、騎射を得意とした。第一領民酋長・臨江伯の位を継いだ。正光5年(524年)、破六韓抜陵が乱を起こし、柔然の残党が馬邑に侵入すると、叱列平は軍を率いて、戦功を挙げ、別将に任ぜられた。後に牧子の乱が起こり、劉胡崙・斛律可那律らが叛くと、叱列平は都督となって、劉胡崙らを討ち平げた。永安元年(528年)、武衛将軍に任ぜられた。爾朱栄に従って葛栄を破り、元顥を平定し、中軍都督・右衛将軍に転じ、廮陶県伯に封ぜられた。永安3年(530年)、爾朱栄が殺害されると、叱列平は爾朱栄の妻や爾朱世隆らとともに北に逃れた。長広王元曄が即位すると、右衛将軍に任ぜられ、京畿大都督を加えられた[1][2]

普泰元年(531年)、高歓が信都で起兵すると、叱列平は高歓に帰順した。中興2年(532年)、に対する攻撃に従い、韓陵で爾朱氏を討った爾朱仲遠が敗走すると、叱列平は東郡大行台となった。永熙年間、爾朱兆を討ち、また婁昭の下で樊子鵠を平定した。使持節・華州刺史に任ぜられた。武定元年(543年)、高仲密が乱を起こすと、叱列平は高歓の下で邙山に戦い宇文泰を破った。廓州刺史に任ぜられた。武定5年(547年)、儀同三司の位を加えられ、河陽に駐屯した。武定8年(550年)、爵位を侯に進めた。天保元年(同年)、北斉が建てられると、兗州刺史に任ぜられ、間もなく開府を加えられ、臨洮県子の別封を受けた。天保3年(552年)、諸将とともに南征し、陽平郡を落とした。南朝梁の軍が広陵を包囲したため、叱列平は河南の諸軍を率いて救援に赴いた。梁軍が撤退すると、叱列平は帰還した。天保5年(554年)夏、51歳で兗州に死去した。都督瀛滄幽三州諸軍事・瀛州刺史・中書監の位を追贈され、を荘恵といった[1][2]

子の叱列孝中が後を嗣いだ[1][2]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 北斉書 1972, p. 278.
  2. ^ a b c d 北史 1974, p. 1917.
  3. ^ 『北史』爾朱栄伝に「西部高車叱列殺鬼」と見える。

伝記資料[編集]

参考文献[編集]

  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4