前田孝行 (加賀藩士)

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前田孝行(石川県立歴史博物館蔵)

前田 孝行(まえだ たかゆき、寛文3年10月17日1663年11月16日) - 享保6年9月14日1721年11月3日))は、加賀藩大年寄。加賀八家前田対馬守家第7代当主[1]

父は加賀藩年寄前田孝貞。兄弟は前田孝和、小幡長時、前田孝近。子は前田孝資村井長堅、前田孝寧、前田孝覩、三条西公福室(前田綱紀養女)、奥村温良室。幼名は萬勝。通称は与十郎、対馬。官位は従五位下、美作守。は行孝とも。

生涯[編集]

寛文3年(1663年)、孝貞の子として生まれる。寛文10年(1670年)、8歳で藩主前田綱紀御目見する。天和3年(1683年)、21歳の時に新知3000石を賜り出仕した。元禄10年(1697年)、父孝貞の隠居により家督と2万1000石の知行を相続する。若年寄、年寄見習、大年寄(大老)、人持組頭を歴任する。宝永元年(1704年)、従五位下、美作守に叙任する。正徳元年(1711年)、公儀御用(宗門方御触)、金沢城代を兼任する。享保6年(1721年)9月14日没。享年59。戒名は長祥院殿前作州刺史従五位下宝山源寿大居士。

家督は嫡男孝資が相続し、末男の孝覩は2500石の分知を受け分家した。正徳4年(1714年)、娘の誠は藩主綱紀の養女として三条西公福に嫁いだ。公福は享保16年(1731年)から武家伝奏を務め、元文5年(1740年)には大納言に叙された。

脚注[編集]

  1. ^ 「加賀八家「殿様」たちの末裔 藩主支えた絆 旧男爵家の誇りは今も」『月刊北国アクタス』2014年8月号

参考文献[編集]

  • 『加賀藩史稿』