元帝 (漢)
| 元帝 劉奭 | |
|---|---|
| 前漢 | |
| 10皇帝 | |
| 王朝 | 前漢 |
| 在位期間 | 前48年 - 前33年 |
| 都城 | 長安 |
| 姓・諱 | 劉奭 |
| 諡号 | 孝元皇帝 |
| 廟号 | 高宗 |
| 生年 | 前74年 |
| 没年 | 前33年 |
| 父 | 宣帝 |
| 母 | 許皇后 |
| 陵墓 | 渭陵 |
| 年号 | 初元(前48年 - 前43年) 永光(前43年 - 前38年) 建昭(前38年 - 前33年) 竟寧(前33年) |
元帝(げんてい)は前漢の第10代皇帝。武帝の玄孫に当たり、父は9代皇帝宣帝。生母は許皇后(平恩侯・許広漢の娘)。
目次 |
生涯 [編集]
宣帝がまだ民間にあった頃に生まれている。 地節3年(西暦前67年)立太子されたが、外戚霍一族は権勢維持のため霍皇后が生んだ子を皇太子として後継に立てることを目論みこれに反発、元帝暗殺を企てるが失敗する。この皇太子暗殺未遂事件と許平君暗殺事件は、後に宣帝が霍一族を粛清する一因となった。 現実的な法家主義者だった父・宣帝と異なり、儒教を重視した政策を実施した。宣帝は元帝の皇太子時代、亡き愛妾の司馬良娣を偲んで嘆き悲しんだり、儒教に傾倒するなどあまりに理想主義で叙情的な性格から「我が家を乱すのは太子ならんか」としてその統治能力に疑問を持ち、加えて後嗣が生まれないことを理由に皇太子の廃位を検討、丞相の黄覇に元帝に代わり淮陽王劉欽を太子とすることを諮問した。 しかし、太子が糟糠の妻であり、霍一族に謀殺され悲劇の最期を遂げた許皇后の忘れ形見であるという宣帝の思いや、生母の従弟である中常侍許嘉(許延寿の子)と継母の王皇后の工作により、王氏(後の王皇后=王政君)との間に生まれた後の成帝の誕生を理由に廃立まで至らなかった。
前49年に即位すると皇太子時代の学師であった蕭望之ら儒者を登用したが、前46年に宣帝時代から側近として重用されていた宦官である弘恭、石顕と対立し失脚した。以後元帝の治世は宦官により専断されることとなった。
詳細は「郅支の戦い」、「呼韓邪単于」、「王昭君」、「郅支単于」、および「漢匈戦争」を参照
匈奴が統一されて西方の脅威が除かれると、元帝は内政に目を向けるようになった。厳しい刑法を改正するなどの政策を採用し、民衆の生活の安定を図ろうと試みた。また、財政の健全化を図り、税を軽減した他、大規模な宴会を禁止、狩猟用の別荘や御料地の経費を抑え、宗廟など祭祀にかかる経費を削減した一方、儒教に傾倒するあまりに現実離れした理想論に基づく政策も実施され、専売制を廃止した為に財政を悪化させて国政を混乱させ、財政問題を根本的に解決するに至らなかった。宣帝により中興された国勢は再び衰え、元帝の皇后王氏一族から出た王莽の簒奪の要因を作り出した。後漢の史家班彪はその治世を「優柔不断にして宣(帝)の業衰えぬ」と評している。
宗室 [編集]
后妃 [編集]
子女 [編集]
元帝が登場する作品 [編集]
- テレビドラマ
- クイーンズ 長安、後宮の乱(2008年、中国、演:呉軍)
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