万里ヶ島

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万里ヶ島(まんりがじま)とは、鹿児島県に属する甑島列島の辺りに位置するといわれている

昔、この島にあった金剛力士像の顔を赤く塗ったために、島は沈んだといわれている[1]

長崎県では台湾の南にあったと言われ、その王の名からドラゴンボートペーロンと呼ぶようになったという伝承がある[2]エンゲルベルト・ケンペルの『日本誌』では、ペーロンの起源としてManrigafimaの王の名を紹介している[3]

また、万里が瀬(ばんりがせ)と呼ばれた孤島が日本とシャム国の間にあり、交易で栄えていたが、15世紀ころに海中に没したという記述が、17世紀前半に書かれた『徒然草嫌(もどき)評判』に見える[4]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 渕敏博 2018, pp. 108.
  2. ^ 『長崎県の民話―ジャガタラお春ほか』ISBN 978-4035223504
  3. ^ John Pinkerton (1811). A general collection of ... voyages and travels, digested by J. Pinkerton. p. 736. https://books.google.co.jp/books?id=XmAOAAAAQAAJ&pg=PA736&lpg=PA736&dq=%22manrigasima%22&source=bl&ots=Hce_7uTqWr&sig=ACfU3U3_mRZcrSm5OMnyubbpCHu4SsZF9w&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjrgPrG6IbhAhWmyosBHZscDYoQ6AEwAHoECAcQAQ#v=onepage&q=%22manrigasima%22&f=false 2019年3月13日閲覧。 
  4. ^ 『徒然草嫌評判〈寛文版〉』吉田幸一編、古典文庫418、1981年
    。 「日本より天竺しやむ国にわたりぬる間に八百里ながれたる瀬有、是を万里が瀬と云。昔は日本の島にて殊に大富貴成島成しが、この二百年以前に沈はてゝ今は瀬となる。今も浅みの通りに船をよせて見れば、鍋釜のごとくなるもの其かたち有を見出しぬる。扨も此嶋の人民数千万人みなうせにけり。漸二人小船にのりて命たすかりぬると云。この嶋の沈み数千万人の死ぬる事、人智のをよぶ所にあらんや、天のなし給所なり。」(上巻21話)
  5. ^ a b 渕敏博 2018, pp. 109.

参考文献[編集]

  • 渕敏博「瓜生島沈没伝説」『別府史談』第30-31号、別府史談会、2018年、101-112頁、NAID 120006422374