龐萌

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龐 萌(ほう ぼう、? - 30年)は、中国代から後漢時代初期の武将。兗州山陽郡の人。

事跡[編集]

光武帝の寵臣[編集]

姓名 龐萌
時代 代 - 後漢時代
生没年 生年不詳 - 30年建武6年)
字・別号 〔不詳〕
本貫・出身地等 兗州山陽郡
職官 〔下江軍武将〕→冀州牧〔更始〕

侍中〔後漢〕→平狄将軍〔後漢〕 

爵位・号等 -
陣営・所属等 王常更始帝光武帝

劉紆→〔独立勢力〕

家族・一族 〔不詳〕

当初は、緑林軍系の下江軍に属していた。更始元年(23年)、劉玄が更始帝として即位すると、龐萌は冀州牧に任命され、尚書令謝躬に帰属し、破虜将軍劉秀と共に河北の王郎を討伐している。更始2年(24年)に謝躬が劉秀に誅殺されると、龐萌は劉秀に降伏してその配下となった。

建武元年(25年)6月、劉秀が光武帝として即位すると、龐萌は侍中に任命された。龐萌は、謙遜温順な人柄により光武帝から信任と寵愛を受け、「若い孤児を託せ(=後見を任せ)、百里四方の国の命(=政令つまり政事)を任せられるは、龐萌この人なり」[1]とまで言わしめている。その後、龐萌は平狄将軍に任命された。

建武4年(28年)7月、梁王劉紆の陣営に属する董憲の配下賁休が、蘭陵(東海郡)を献上して漢に帰順する。まもなく、董憲が蘭陵の奪回に動いたため、光武帝は龐萌と蓋延に命じて賁休を救援させた。しかし、董憲の前に龐萌と蓋延は敗退し、結局、蘭陵も奪い返されてしまう。

寵臣から叛逆者へ[編集]

任務失敗により、龐萌と蓋延の間には不穏な空気が流れたと見られる。さらに、光武帝の詔が蓋延にだけ下され、龐萌に下されないという一件が起きると、龐萌は蓋延が自分を光武帝に讒訴したのではないかと疑い始めた。そして建武5年(29年)3月、龐萌は楚郡太守孫萌を殺害し、蓋延を撃破して、劉紆陣営に寝返ってしまう。

龐萌の反逆を聞いた光武帝は激怒し、龐萌を「老賊」と罵って、諸将にその追討を叱咤、命令している。龐萌は、梁軍の蘇茂の支援を受けて桃城(東平郡)を包囲したが、光武帝軍に撃破され、さらに董憲に付き従って山東地方を中心に転戦したが、呉漢を筆頭とする後漢軍の猛攻の前に敗北を重ねた。そして建武6年(30年)2月、董憲と共に立て籠もった朐(東海郡)が陥落し、方与(山陽郡)で追い詰められると、龐萌は董憲と共に光武帝に降伏しようとする。しかし、追撃してきた呉漢軍により、董憲と龐萌は殺害され、首級は洛陽に送られた。

脚注[編集]

  1. ^ 論語』泰伯第八の六 曾子曰「可以託六尺之孤、可以寄百里之命、臨大節而不可奪也、君子人與、君子人也」の引用。つまり龐萌は君子人と誉めている。

参考文献[編集]

  • 後漢書』列伝2付・龐萌伝、劉永伝
  • 同本紀1上光武帝紀上

関連記事[編集]