ノート:邪馬壹国説

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こんなの、九州王朝説でいいじゃないですか。 --ねこぱんだ 2010年6月11日 (金) 07:19 (UTC)[返信]

まず九州王朝説の主な執筆者である人のホームページ「サルでもわかる日本史」を見てもわかるとおり九州王朝説の論者が必ずしも本文のことを主張しているとは限りません。又この説は根本的に『魏志』の改定を禁ずるものなのでエクアドルについても触れています。まだ書きかけなので不備もあると思いますがとりあえず現状維持にしといてください。--日野智貴 2010年6月12日 (土) 03:20 (UTC)(なんとなく私の編集を監視されている気がするが気のせいだろうか)[返信]

「概要」の内容の特化と、「比定」の削除を提案します。[編集]

このノートの前の段で「九州王朝説でいいじゃないか」と言及されているように、「比定」の段落はべつに邪馬壱国説とは関係ないと思います。邪馬壹国の場所に関する説明文の比率が多くなりすぎて、この項目の要点がぼやけてしまっていると思います。

むしろ、「概要」の段落に、もっと論拠を書き加える方が良いのではないでしょうか。 たとえば、以下のようなものが「『邪馬台国』はなかった」に挙げられていたと思います。

  • 三国志全巻の「䑓」「壹」の用例を全て調べ上げたが、壹と誤記していると思われるところはなかった
  • 三国志全巻で「䑓」は魏朝の王宮またはそれに準ずる王宮にしか使われない「至高の文字」だった。「邪」「馬」「卑」などの卑字をあてられる蛮族の国名に、至高の文字を割り当てることは、三国志筆者の思想からして有りえない。
  • 現存する三国志の基となった注釈版では、五世紀時点には残っていた他の版と厳密に比較して慎重に意見を付しても原文改訂を行わないのが執筆者の方針だったが、「邪馬壹国」表記に何も注釈を残しておらず、当時のすべての版で「壹」と書かれていたと思われる。
  • 三国志成立の三世紀から、現存する版が書かれた五世紀まで、金石文で「䑓」と「壹」の字形が似ていたかどうかを調べたが、誤記するほど似ていたとは言えない。

--Yasiyasi会話2017年8月30日 (水) 03:44 (UTC)[返信]

この項目の存在自体には意義を認めますが[編集]

古田氏の本すら十分に咀嚼していないように思われますし、誤記・誤認も散見されます。
>三国志全巻の「臺」「壹」の用例を全て調べ上げたが、取り違えて「壹」と誤記していると思われるところはなかった
「孫聖壹」の例が誤記だと疑われます。これは白崎昭一郎氏『東アジアの中の邪馬臺国』中に古田氏の見解に対する詳細な反論があります。
>三国志全巻で「臺」は魏朝の王宮またはそれに準ずる王宮にしか使われない「至高の文字」だった
これは三木太郎氏らの詳細な検証があり、そう考えるのは誤りです。「臺」が「京觀」の意味で使われ(『魏志』鄧艾伝【使於緜竹築臺以為京觀】)これは死体を積み重ねた冢という意味です。死体の山を表す「臺」が「至高の文字」だったはずはありません。また、「臺」は一般的に建造物にも多用されるもので、それが朝廷や宮殿などの意味に用いられるようになったのは、古田氏も引く『容斎続筆』にある通り「晋宋の間」であり、特に魏代に専らそのように用いられたという根拠は乏しいと思われます。尚、この「京觀」の例は何故か古田氏の挙例の中から漏れています。重要な事例が欠落していたことになります。
>現存する三国志の基となった注釈版では、五世紀時点には残っていた他の版と厳密に比較して慎重に意見を付しても原文改訂を行わないのが執筆者の方針だったが、「邪馬壹国」表記に何も注釈を残していない。このことから、当時のすべての版で「壹」と書かれていたと思われる。
恐らく『三国志』裴松之の注のことを仰っているのかと思いますが、「五世紀時点には残っていた他の版」の意味が不明です。「邪馬壹国」表記に何も注釈を残していないのは、『三国志』がもともと「臺」であったとしても同じことです。「当時のすべての版」も意味が不明ですが、恐らく他書のことかと思います。それらに「壹」と書いてあったのなら、宋代までに編纂成立した諸書に一切「壹」が出現せず、「臺」のみであることの説明が付きません。
>三国志成立の三世紀から、現存する版が書かれた五世紀まで、金石文で「臺」と「壹」の字形が似ていたかどうかを調べたが、誤記するほど似ていたとは言えない
「臺」と「壹」の誤写は唐代から宋代にかけて発生したと考えられますので、そのような考察は無意味です。そもそも古田氏はあまり引用しませんが、『隋書』には【則魏志所謂邪馬臺者也】とあり、7世紀前半の唐代には『三国志』に「邪馬臺」とあったことがはっきりしています。
>『梁書』の例もある通り「魏志倭人伝」以外の全てが邪馬台国というわけではなく
『梁書』の現行刊本(宋蜀大字本)は「祁馬臺」であり「臺」です。また「祁」字は「邪」の誤であり、『梁書』を引く『冊府元亀』(恐らく宋蜀大字本に先行する11世紀初頭成立)では「邪馬臺国」とあります。「祁」については現行刊本の誤とみて間違いありません。『梁書』には『魏志』倭人伝の行程記事がかなりよく引用されており、当時の『魏志』が「邪馬壹」であったとしたら、編者である姚思廉が何故「邪馬壹」をそのまま引かなかったかの説明が必要になるでしょう。古田氏なら先行する『後漢書』に倣ったとされるのかも知れませんが、そもそも范曄の『後漢書』は范曄自身が書き残しているように、【乃刪眾家後漢書為一家之作】であり、諸家の『後漢書』を集めて范曄自身の『後漢書』となしたのであって(『宋書』范曄伝)、その諸家の『後漢書』にも「邪馬臺」とあったことが窺われます。つまり、卑弥呼の都したところは後漢代から「邪馬臺」だったということになります。
「臺」と「壹」の異同の問題は、「壹」が宋代になってから生じた誤写だと考えることに拠って諸典籍上の各事実が合理的に説明できます。

--ハイエナのパパ会話2021年3月11日 (木) 04:45 (UTC)[返信]

2014年6月29日 (日) 16:20 (UTC)「Wikipedia:削除依頼/邪馬壹国説」に「存続 魏志倭人伝や後漢書倭伝の唐代の古書に「邪馬壹国」と記されており」との記述がありますが「後漢書倭伝の唐代の古書に」という文意が不明です。想像をたくましくするに、『後漢書』李賢注の【案今名邪摩惟音之訛也】の「邪摩惟」のことか。しかしこれは本来「邪摩堆」とあるものが南宋代の刊本において「邪摩惟」と誤られたものにすぎないことは「今名」が『隋書』『北史』における「邪靡堆」「邪摩堆」を指すものであることから明白です。「邪馬壹(一)国」とあるのは『三国志』の宋代以後の諸刊本と、同じく宋代以後の一部典籍のみであり、宋代より前に『魏志』に「邪馬壹国」とあったことを証明する文献は実在しません。
--ハイエナのパパ会話2021年3月15日 (月) 02:04 (UTC)[返信]